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クッツェーの「恥辱」



タイトルが際どい感じがしますが、史上初めてブッカー賞を二度にわたって受賞した文豪・J.クッツェーのブッカー賞受賞作です。てか、ブッカー賞ってご存知ですか??英語で書かれた小説のみに与えられる賞という制限があるため、日本人作家には縁がない賞ですが、世界的な賞の一つだそうです。(映画のアカデミー賞みたいなもんか。)
このクッツェーは、南アフリカの作家。後にノーベル文学賞も受賞しています。


主人公ラウリーは52歳の大学教授。自らの頭脳と肉体に自信を持ち、何の不自由もない生活を送っていたはずが、あるとき学生を追い回し、そして関係をもってしまう。そしてそれがセクハラ問題として表面化、辞職に追い込まれます。前妻との間に出来た娘の営む農園に身を寄せるも、強盗事件が更なる追い討ちをかけ・・・。



崩壊

長身で体格よく、この明るい褐色の肌になめらかな髪があれば、あるいていどの”磁力”はいつでも当てにできた。どんなふうに、どんな目で語りながら女を見れば、むこうが見つめかえしてくるか、それには自信があった。そうやって生きてきたのだ。何年、何十年と、それが生活のバックボーンだった。
・・・・・
ところが、ある日、すべてが終わりを告げた。なんの前ぶれもなく、その”力”が失せた。
( ― 「恥辱」(J. M. クッツェー、訳:鴻巣 友季子、2000年))

能力に恵まれ、インテリという狭い世界で狭い価値観を持って生きてきた男は、変わらぬ環境に生きる。だから、自分の変化に気づかない。そしてついに、「なんの前ぶれもなく」次から次へと課題に直面するようになり、噛み合わない議論と自問自答を繰り返していくのです。


ここで見られるのは数々の「断絶」。
安定から窮地へ。
白人と、黒人。
前妻の考えと、教授の考え。
教授の価値観と、娘の価値観。
そして何より、男を襲う惨劇と、それを突き放したような、冷めた文体。



老いということ


毎分毎秒、年をとっていることは誰もが知っています。でも、それを感じる瞬間は、人にとっていつも突然。この描写なんて、まさに白眉です。
老人になるとはどういうことか、その味を初めて知った。体の芯まで疲れきり、希望も欲望もなく、将来に興味がわかない。ビニール椅子に身をしずめ、ニワトリの羽と腐りかけたリンゴの悪臭漂うなかにいると、自分の内から世の中への関心が一滴また一滴と洩れだしていくのを感じる。


そして、前妻との会話。
「あなたはもう ― 五十二?そんな歳の男とベッドをともにして若い子が歓ぶとでも思うの?女の子が眺めて楽しんでいるとでも思う、あなたの、その…最中を?そういうこと、考えたことはあるの?」
「私の同情は期待しないことね、デヴィッド。」…
むかしの口調が顔をのぞかせている。結婚生活の終わりごろよく聞いていた声。熱っぽいお咎め。…
たしかに若い娘には、じいさんの悶絶する光景から目を保護する権利がある。そのために娼婦がいるんじゃないか、要は。醜い生き物の恍惚に我慢してつきあってやるために。




不条理、だからこそ


確かにラウリーを襲った数々の事件は悲劇だった、けど、徹底的に客観的な文体や、彼とあまりにも違う価値観の人たちとの会話のうちに、それが当たり前なのではないか、それが彼にとって分相応なのではないか、うんと悪い言葉で言うならば「ざまあみろ」で捉えられるものではないか、と、暗澹とした気分にさせられます。


噛み合わない議論を通じて少しずつ悟っていく過程、それが「恥辱」。己の現実を見つめ、分相応を知っていくこと、それが「恥辱」。だからこそ逆に、そこにほのかな光が差し込んでいるように思えたり。ただただ、作者に敬服です。
「ええ、そのとおり、屈辱よ。でも、再出発するにはいい地点かもしれない。受け入れていかなくてはならないものなのよ、きっと。最下段からのスタート。無一文で。それどころか丸裸で。持てるものもなく。持ち札も。武器も、土地も、権利も、尊厳もなくして」
「犬のように」
「ええ、犬のように」




アフリカ文学??興味ないし。なんて言わせません。

いつの間にやら文庫にもなったようですね。
どん底に堕ちたい人、どうぞ。
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【2007/10/25 19:14】 読書 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
青い鳥を求めて
最初にお断りしておきますが、何日にも分けて書いている長さです。全体は「レビュー3本+日記」の構成で、レビューで扱うのは、
  • 「君死にたまふことなかれ」(与謝野晶子)
  • 「山月記」(中島敦)
  • 「クリスマス・キャロル」(ディケンズ)
です。

君死にたまふことなかれ


軍国主義のさなかに詠われた、与謝野晶子の反戦歌。その冒頭は、歴史の教科書に必ず載っています。
あゝおとうとよ、君を泣く
君死にたまふことなかれ
末に生まれし君なれば
親のなさけはまさりしも
親は刃をにぎらせて
人を殺せとをしへしや
人を殺して死ねよとて
二十四までをそだてしや
(後略)

まぁ簡単に補足すると、「人を殺せとをしへしや」の「や」は反語を表しているので、「人を殺せと教えたのだろうか、いや、そうではない」というニュアンスです。同じく、「二十四までをそだてしや」は、「人を殺すことが人生だとして、親はお前を24歳まで育てたのだろうか、いや違う!」となります。


じゃあ何が人生か、何をして死ねよと親は教えたのか、ということはここでは語られず、以下は全5連に渡る反戦歌が続きます。(全文、訳、解説はこちらが詳しいです。)
あゝおとうとよ、君を泣く
君死にたまふことなかれ
末に生まれし君なれば
親のなさけはまさりしも
親は刃をにぎらせて
人を殺せとをしへしや
人を殺して死ねよとて
二十四までをそだてしや

堺の街のあきびとの
旧家をほこるあるじにて
親の名を継ぐ君なれば
君死にたまふことなかれ
旅順の城はほろぶとも
ほろびずとても何事ぞ
君は知らじな、あきびとの
家のおきてに無かりけり

君死にたまふことなかれ
すめらみことは戦ひに
おほみずから出でまさね
かたみに人の血を流し
獣の道で死ねよとは
死ぬるを人のほまれとは
おほみこころのふかければ
もとよりいかで思されむ

あゝおとうとよ戦ひに
君死にたまふことなかれ
すぎにし秋を父ぎみに
おくれたまへる母ぎみは
なげきの中にいたましく
わが子を召され、家を守り
安しときける大御代も
母のしら髪はまさりぬる

暖簾のかげに伏して泣く
あえかにわかき新妻を
君わするるや、思へるや
十月も添はで 別れたる
少女ごころを思ひみよ
この世ひとりの君ならで
ああまた誰をたのむべき
君死にたまふことなかれ

第2連で、商人の家の誇りを語り、
第3連で、天皇はお前の死を望むものかと強く出て、
第4連で、彼への思慕で苦しむ母の嘆きを代弁し、
第5連で、結婚1年に満たない若妻に想いを訴える。。


これだけいろいろな方向から弟を見ていながら、「弟をこんなに愛してる」という晶子本人の想いそのものが書かれていません。だけど、そんなものはなくてもいい。全体を通じて弟への愛が溢れています。
あゝおとうとよ、君を泣く
君死にたまふことなかれ
この強烈な語り出しで始まって、そして最後でも訴える「君死にたまふことなかれ」。


晶子本人からすれば一番遠いかもしれない存在「新妻」で詩を結んでいるところも、強くて悲しいやさしさを感じさせます。


家、君主、母、そして新しい家庭。


第1連の反語の裏で間接的に投げかけられた、「親は何ををしへた」のか、という問いへの答えらしきものがぱらぱらと散りばめられ、それが晶子の強い声でまとめられています。


いい詩ですよね。僕は好きです。





「山月記」


中島敦の「山月記」を読みました。最近は高校の教科書でも取り上げられているようですが、僕は読んだのは初めて。わずか十数ページなのに、すごく含蓄のある小説です。


念のためあらすじを書いておくと、李徴は仕事をやめて、昔からの夢であった詩作に専念、しかし一向に名は上がらず生活は苦しくなるばかり。すべてを捨てて山中で発狂し、気づけば体は虎になっている。ある日、李徴の友人がそこを通りがかると、茂みから李徴の声が聞こえる。曰く、虎になった自分は一日に数時間しか人間の心を持てないとのこと。こうなった理由は、自分の高慢さが人にへつらうのを妨げながら、一方でその臆病さによって努力を避けてきたこと、そして妻子を残してきたことではないかと告白する。そして、李徴は最後の望みとして、人生を賭けた、自らが書き残した詩を発表してくれること、そして妻子の面倒を見てくれることを頼み、そして別れを告げる…。


こんな感じ。まぁ読んだことある人は多いですよね。


「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」という言葉が出てきます。自らの才能を人に誇ろうと優越感を抱きながらも、才能のなさが暴露されるのを恐れて努力できないという劣等感に悩まされる。その劣等感を隠すために人との交わりを避け、優越的な態度をとり、また人間関係に苦しみを覚える…。


なんとも現実的な話。身につまされる思いがします。そして、こうしているうちに、彼は虎になってしまう。



ここからの描写がすごい。日本語がうまいので、そのまま引用します。
自分は直ぐに死を想うた。しかし、その時、眼の前を一匹の兎が駈け過ぎるのを見た途端に、自分の中の人間は忽ち姿を消した。再び自分の中の人間が目を覚ました時、自分の口は兎の血に塗(まみ)れ、あたりには兎の毛が散らばっていた。これが虎としての最初の経験であった。それ以来今までにどんな所行をし続けて来たか、それは到底語るに忍びない。ただ、一日の中に必ず数時間は、人間の心が還って来る。そういう時には、曾ての日と同じく、人語も操れれば、複雑な思考にも堪え得るし、経書の章句を誦んずることも出来る。その人間の心で、虎としての己の残虐な行のあとを見、己の運命をふりかえる時が、最も情なく、恐しく、憤ろしい。しかし、その、人間にかえる数時間も、日を経るに従って次第に短くなって行く。今までは、どうして虎などになったかと怪しんでいたのに、この間ひょいと気が付いて見たら、己はどうして以前、人間だったのかと考えていた。

ただ、とにかく共感しました。どんどん人間と話さなくなっていく自分。いつの間にか自らの「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」によって自分が見えなくなり、歪んでいて、そしてふと我に返ったとき、自らの牙に血を見る自分。どんどん分からなくなる。人にどれほどの傷を負わせたか、もう一日ほんの数分になった「人間の頭」で、考えても考えても分からない。


「就職活動でたくさんのものを失った」という文章をかつて見ました。納得。歪んだ常識が、刺激に反応して、さらに歪められる。自分が人間の心を失ったということが、「後から」分かる。そしてぞっとする。経験ある人もいるんじゃないでしょうか。


虎になる必然性は、この作品にはない。すべては李徴の推測です。彼に必要だったのは、詩作への没頭か、仕事への邁進か、妻子への愛か、あるいは??答えが出るなら、歪んだ人間などこの世にいない。


ちなみに、ちょっと検索をかけると、国語の授業ノートみたいなのが沢山出てきて面白いです(笑)。興味ある人はどうぞ。





「クリスマス・キャロル」


くどいですが、さらにもう1つレビュー。今日読み終わりました。「大いなる遺産」などで有名なイギリスの作家・ディケンズの童話「クリスマス・キャロル」です。


主人公は、誰にでも嫌われる守銭奴スクルージ。クリスマスだといってもアタマの中は仕事と金だけ。書記をどなりつけ、寄付を断る。そんな彼のもとに3人の幽霊が訪れ、過去、現在、未来を見せていく。1人目の幽霊が見せたのは、過去。スクルージがかつて見た、美しいクリスマスの光景、そして恋の語らい。少しずつ、運命に変調をきたしていった頃。2人目の幽霊が見せたのは、現在。幸せなクリスマスの家庭、嫌われ者のスクルージ。だけど、血も涙もなくなったような彼にも、その幸福を願う人がいる。3人目の幽霊が見せたのは、未来。誰もが、とある死んだ男の悪口を言う。誰からも尊敬されず、墓もボロボロ。そして、その世界に、スクルージがいない。まさか・・・。そして現実に戻って、彼は子供にやさしくなり、書記に心を配り、家族とクリスマスを祝い、善なる人間になって幸せになった、というハッピーエンドです。




読んでて、居心地の悪さを僕は感じ続けていました。「めでたい日」。それはそれでいいのだけれど、全員がそれを享受できているわけではない。
それでもその全員が、それぞれにクリスマスの歌を口ずさんだり、クリスマスのことを思ったり、いっしょにいる仲間に昔のクリスマスの思い出のことを、小声でささやいたりしていました。そうした思い出話には、故郷への思いもひそんでいました。船の上には、起きている者もいれば眠っている者もおり、善人もいれば悪人もおりましたが、そのだれもが、一年のうちのこの日だけは、ふだんよりも思いやりのある言葉をかけあい、いくらかでもお祭り気分を味わい、遠くにいる親しい人たちのことを思い出したり、むこうでも自分のことをなつかしく思ってくれているだろうなと考えたりしているのでした。

典型的な美しきクリスマスの描写とやらでしょうけど、中には恵まれない人だって絶対にいる。中には、普段から善を心がけ(スクルージとは違う!)、それでも、家々でのパーティーを、そこから流れる七面鳥の香りを、笑い声を、子供たちの浮き立つ足取りを、一人ぼっちで羨ましく感じる人がいる。彼らに何が出来るのか。非があるなら、直すのはたやすい。


スクルージには、甥の家族がいました。だから改心したとき、彼らの元に飛び込めた。だけど、そんな家族がいない人だっている。改心したって彼らの元に飛び込めない人もいる。飛び込んで、歓迎されない人もいる。その人たちは、「悪人」だろうか。


非がない人の不幸は、果たして救われるのか。
不幸な人間には、みな、スクルージのような非があるのだろうか。



報われない人々。
因果応報では語れない人々。


「親にをしへられ」ていなかろう戦争に向かったのは、軍部の命令だったはず。詩作に励み、いかにも人間らしい苦悩を抱えた李徴が虎になったのは、彼のせいなのでしょうか。


童話だから仕方がないのかもしれないけれど、「クリスマス・キャロル」には西洋のマイノリティーを抑圧する歴史の一端が見える気がしました。そして、その片棒を担いだような文章が、12歳から靴墨工場で働いた庶民派の作家・ディケンズの筆から見えたところに、僕は嫌悪を感じました。

(註:ちなみにこの作品は19世紀半ばですが、「不条理」概念が主にカミュやサルトルら20世紀前半の人によって描かれだしたことから、作品に罪を着せる気はありません。そういう時代の話なんだな、と。)





そして、最後に自分のこと。


============


自分の欠点なんて、枚挙に暇がない。怠惰で、愚かで、傲慢で、空気の読めない、非常識な、醜い、ああ。こうした列挙の中でも、自分の本当にイタい部分を避けて書いている、自分の偽り。一日が終わって、鏡の前に来たときに、日記帳を開いたときに、自分の牙についた血に気づいて必死に拭き取る毎日です。時に、誰の血かも分からない。



でも、虎になった李徴に、詩や妻子を任せられる最後の友人がいたように、僕にもまだ大切な人たちがいて、彼らがまだ僕の人間の心をつなぎとめてくれてる感じがします。自分がスクルージのような冷血漢なら、日ごと短くなる、そのわずかな人間の心で、改心していく他はない。だから頑張ろう。だけどもしも、「クリスマス・キャロル」に描かれないような、非のない苦しみを持ったとしたら?


それは考えるだけで恐ろしい。そんなものはないと信じて、非が見える限り頑張るだけ。でも、それでいいのだろうか。





研究テーマに宗教建築を選んだことを、半ば後悔しています。重すぎる。でも、やるしかない。やるなら、今しかない。同期はいなくなりました。
人を殺して死ねよとて
二十四までをそだてしや
学生最後の誕生日は、友人に1人も会わない、静かな一日でした。最近を振り返ってみれば、そんなことはその日に限ったものでもない。虎は、「白く光を失った月を仰いで、二声三声咆哮」するのみ。



24歳になりました。ダメ人間なりに生きます。
【2007/10/21 03:51】 読書 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
牛歩読解
旅行中、旅行ガイド以外に何一つ読まなかった反動か、帰ってから本の衝動買いがひどいです。すでに15冊以上買っていますが(1日1冊近いペース)、あいにく僕はひどい遅読。帰国後の消化はわずかに3冊、1週間に1冊でも自分としてはそこそこなので、机の積ン読がとにかくジャマです。


いかにもな感じですが、周りにやたら速読派が多いのはここが東大なのと無関係ではない気がします。貸した本が2日で戻ってきたり、レビューがバンバン更新されたり、研究の参考文献リストを見てると、何か悔しい。速読の甘言を鵜呑みにすれば、「理解内容はほとんど変わらない」らしいので、読めば読むほど時間を相対的に損している気分。それでも速読を試せば3日と持たない自分の向学心には、まさに呆れてモノが言えない…って、この表現を使う人に限ってモノを言いまくってる傾向があるからこの表現は嫌いだけど。


=============


速読と遅読が同じ理解度なら、これで決定的に差がつくのが受験国語でしょう。なにぶん、あれは本文を読むのも時間に含まれているどころか、読むことが時間配分の大黒柱。学校教育は何かと本文の理解に時間をかけるけど、受験を目指すならスピードは絶対必要です。より早く読み、より早く解く、ということを国語の時間にどうしてやらないんだろう?


学校教育として踏み込みにくいのは分からないでもないけど、塾や私学では先生の裁量でドンドン取り入れられていいような気がするし、何も受験テクニックだけの話をしているのではなく、冷静に検討すれば子供の将来のために有意義と判断する人はいるはず。先生がノウハウを持ち合わせていないのかな?


数学にしろ、物理にしろ、先生が例題を与えて生徒が解く時間は必ずある。そして先生が打ち切る。これが時間の「目安」で、理系科目ではそういうトレーニングは日常的に行われている。だけど、国語はなぜか、何かと「宿題」になる。算数の授業に計算トレーニングを課す要領で、読解(例えば速読)のトレーニングは何かしら取り込めないのかなぁ?算数の計算に対するのは国語では漢字だ、という古典的発想は、あまりに安直な気がする。



国語の先生は魅力的な先生が多いと思うけど(少女が恋する先生は間違っても数学教師ではない。イメージだけど)、授業は先生任せの哲学的思索の場になり、それはそれでいいけどトレーニング要素を「全く考えないのが当たり前」になっているんじゃマズかろう。少なくとも自身が受けた国語の授業にはそう思う。まぁ一つ前の時代の話だけど。


代数と幾何で苦手があれば点数にハッキリ出るし、小問で方程式と関数の小計を見ればどこでつまづいてるのかも分かって対策も立てやすい。でも、小説と説明文で点数に違いが出ても何のことだかは正直よく分からないし、国語は常に読む力と書く力が混在して測られているからなおのこと。テストをやって、その反省や弱点克服の方法を、今の先生は示せているのか。



速読など新しいツールが脚光を浴び、小説も論説もどんどん新しくなり、社会の激変に晒される科目・国語。教えられたことをそのまま教える、コピーのコピー方式ではどうしても品質は劣化しそうです。現役の先生はどう工夫しているのかな?
(ここまで読んだ現役さんいますよね?(笑))








あー、うらやましいなー。てか、僕の場合は書くヒマあったら読めよってとこですね。すみません。


で、調べてたらこんなの見つけました。
参考:学習指導レポート、習熟度別指導の学力について(国語)考える②
面白いですよー。
【2007/07/17 04:43】 読書 | トラックバック(0) | コメント(5) | page top↑
時間のキャンバス~ミヒャエル・エンデの「モモ」
時計というのはね、人間ひとりひとりの胸の中にあるものを、きまめて不完全ながらもまねて象(かたど)ったものなのだ。光を見るためには目があり、音を聞くためには耳があるのとおなじに、人間には時間を感じとるために心というものがある。そして、もしその心が時間を感じとらないようなときには、その時間はないもおなじだ。
(― ミヒャエル・エンデ作、大島かおり訳「モモ」より、強調:引用者)


なんてすごい「童話」なんだろう。「児童文学」というジャンルで、これだけのことを語れる本が他にあるでしょうか。現代を痛烈に批判する一方、人間の本当に大切(と思われる)なものを、グイグイと見せ付けられる思いがします。

時間を感じる心。今日の僕はと言えば、午前中は就活に出て、ファーストキッチンで本を片手に昼食をかきこみ、語学を2時間ほど勉強して、本郷に行って院生室で用事を済ませ、バイトに行って帰ってきてブログを更新しています。だから時計は何度となく見ています。でも、時刻を確認することと時間を感じることには雲泥の差があるのです。


この作品は、あるのんびりした街に住むホームレスの少女・モモが、人々から時間を盗もうとする「灰色の男たち」と対決するお話です。読んだことがある人も多いとは思いますが、一応簡単に。


簡単なあらすじと、哀れなフージー


灰色の男たちは、市民一人ひとりを訪問します。その人が、「立派になりたい」と思っていることを知っている彼らは、彼らがいかに時間を無駄にしているかを説いていきます。

時間を節約して「時間貯蓄銀行」に預けること、そうすれば、利子がついて将来倍になって返ってくるのだ、と。では、時間を預ける、とはどうすればよいのか。例えば1日に2時間節約したとします。つまり1日でやることを22時間で行う。そうすると気付かない間にふっとその2時間が消えている、というのです。

床屋のフージー氏のところに来た灰色の男たちは、フージー氏がいかに「時間を無駄にしているか」を数字で示します。そして次々と具体策を示していく。

1時間かけていたお客は15分で髪を切る。余計なおしゃべりはしない。インコはペット屋に売り、病気の母親は老人ホームへ、毎日会っていた恋人とは2週に1度しか会わない…。

でも、灰色の紳士は、彼の記憶からさえ姿を消してしまうので、フージー氏はその変化さえ自分で感じられないのです。それを本文ではこのように表現しています。

毎日毎日がますますはやくすぎてゆくのに気がついて愕然とすることがあっても、そうするとますます死にものぐるいで時間を倹約するようになるだけでした。


どれほど忙しくても、充実を味わえない人。ぎくりとしませんか?


充実の末路


そして、エンデの描写の勢いはとどまるところを知りません。引用が多くなって恐縮ですが、「これが童話かよ」と突っ込みたくなるクオリティに驚かされること請け合いです。いや、そんな客観的に読む余裕は僕にはありませんでした。身につまされるのです。

たしかに時間貯蓄家たちは、あの円形劇場あとの近くに住む人たちより、いい服装はしていました。お金もよけいにかせぎましたし、使うのもよけいです。けれど彼らは、ふきげんな、くたびれた、おこりっぽい顔をして、とげとげしい目つきでした。


時間をケチケチすることで、ほんとうはぜんぜんべつのなにかをケチケチしているということには、だれひとり気がついていないようでした。じぶんたちの生活が日ごとにまずしくなり、日ごとに画一的になり、日ごとに冷たくなっていることを、だれひとり認めようとはしませんでした。


彼らは余暇の時間でさえ、すこしのむだもなく使わなくてはと考えました。ですからその時間のうちにできるだけたくさんの娯楽をつめこもうと、もうやたらとせわしなく遊ぶのです。



灰色の現代史


この物語に出てくる何人かの人は自分たちの変化に気付いていて、「時代がすっかり変わってしまった」ことを嘆きます。灰色の男たちによって時代が変えられたのなら、変わったポイントが明らかだから。

だけど、この本が皮肉る現代はそうではない。あらゆる事務処理がスムーズになり、手間が省ける時代に、なぜどんどん人手が必要になるのか。一日中家を空け、家と会社を往復するような生活を「当然」と言う人がどれほど多いか。潤沢な時代に、社会的なわずかな付加価値のために、その争いに躍起になったために、現代人はどれほど時間を感じる心を失っていくのか。

昔はよかった、などと言いたいのではないし、言える年でもありません。ただ、僕らが「充実」と呼んでいるものは、もしかしたら極めて根源的な問題かもしれないということです。企業戦士の父親を見て育つ、学歴社会を生き残る、教育の段階からの、灰色の現代史の影響なのかもしれません。

自分だって、お金も名声も欲しい。外資金融の説明会に行けば、そこの人たちの目のあまりの深さに驚くはず。きっと彼らは、素晴らしく充実した人生を過ごしているんだろう。彼らのほとばしる知性のオーラに圧倒されます。でも、そこにオーラを感じること自体が、教育された灰色の感覚かもしれない。いや、それでもやっぱり、美しい。うらやましい。どちらがいいかの結論は出せません。灰色呼ばわりが負け惜しみと堕落の一歩である危険は十二分にあります。結局は充実かゆとりかの二項対立ではなく、歴史と個人の問題なのです。


話を戻します。


何の時間を節約しているか


充実している人は、たいがいにおいて、同じ時間に人より多くのことをやっています。でも、彼らがいかに多くのことをやっていても、決定的に持っていないものがある。それは「受け皿」です。

バイトでの雑務を、断らざるを得なかった。
遊ぼうよ、と声をかけられても、断る。
会いたい人と、予定が合わなくてあきらめる。
その他、電話に出られない、眠くなる、ブログが更新できない…。

あらゆる充実は自分のためのもの。充実はタダではない。ちゃんと犠牲を伴っていることを知るべきなのです。人への時間は、ゆとりの中からしか生まれない。ゆとりを削って充実させていくことは、時として大いに必要ですが、人への時間を削る可能性を否定できないことなのです。


灰色の男たちに立ち向かった少女モモ。彼女の特技は「人の話を聞くこと」でした。貧乏で何も持っていない、あるのは時間だけ。そんな「人に分け与える時間」しかない少女が、灰色の男たちと対決する、その構図に、作者・エンデはどんな思いを込めたのか、何となく分かる気がしませんか。




灰色の男たちは、「葉巻をくゆらし、書類カバンを持った紳士」でした。この本は、まだ書類カバンを持たない人、そして持った人にもお勧めの「童話」です。


1ヶ月のインターンを辞退しました。これでよかった、と思いたいです。
【2007/03/01 02:50】 読書 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
若きウェルテル、悩んでも死ぬな
「どんなに浮世の束縛を受けていたって、いつも胸の中には甘美な自由感情を持ち続けているんだ。自分の好む時に、現世と言う牢獄を去ることができるという自由感をさ。」
 ― ゲーテ「若きウェルテルの悩み」(高橋義孝訳)


「わ、これ、絶対読まないほうがいいよ?男のウジウジした悩みばっかでほんっっっっと、キモチワルイ!」と、生協書籍部で同期の友人に「薦められた」のが3年前でしたっけ。そうか、そんなひどいのか、と当時は思ってましたが、ついに手を伸ばしてしまいました。


…で、面白かったです笑。


アルベルトとウェルテル


「若きウェルテルの悩み」は、ご存知のように、「人妻」に恋焦がれる青年の日記で、最後は愛する人に突っぱねられて拳銃自殺する、超インモラル小説です。まぁ片想いの話はここではさておき、自殺についての記述がなかなか面白い。


例えば、本文中程に、シャルロッテの許婚・アルベルト青年VS主人公の口角泡を飛ばす議論が出てきます。

アルベルト青年の「人間はどういうつもりで自殺なんかするのか、信じられない」に対して、ウェルテルが反論します。アルベルトは自殺は現実逃避の弱さ以外の何物でもない、思慮分別を失った人間は酔っ払いや狂人と同じだ、と主張します。

これに対してウェルテルは、行為の原因を考えることなく自殺を罪とするのは無理だ、情熱と狂気は紙一重のものだ、そして肉体的苦痛が限界を振り切って死ぬことがあり得る(例えば熱病)のと同様、精神的苦痛が耐えうる限界を振り切ったのが自殺という結果である、と反論。ウェルテルはこう断言します。

「人間の心が、入り乱れ矛盾し合ういろいろの迷宮からどうしても逃げ出せなくなると、人間は死なざるをえないのだ。」


今日まで何度となく繰り返されている議論です。そして、結局二人の議論は物別れに終わります。当然ですが、あまりにも根本的に意見の向いている方向が違う場合、これは「信じる神の違い」となって議論になりません。


楽あれば苦あり、と言えど


どちらが正しいかは論じられない、そこで二人の意見で何が違うのかを見ていきます。

まず、アルベルトは自殺を「人生の苦難からの逃げでしかない」と言い、またウェルテルは「楽しかるべき人生を棒に振るだけの決断」と言います。実は理性的で楽天的に見えるアルベルトが人生を苦難と捉え、直情的で悲観的なウェルテルは(本来的には)快楽と捉えている。人生観が意見に反映されています。自殺という最終手段と、楽天的な世界観が表裏一体になっているのが分かります。

夢は持て、しかしそこにドライブがかかりすぎると破滅するというのが、この小説で浮き彫りにされている人間の微妙さです。確かに物語は、許婚のいる女性に熱狂的になった(ドライブがかかりすぎた)ウェルテルの悲劇で終わっています。

もっとも、ウェルテルがハナから人生を楽天的に考えているかというと、そうではありません。例えば冒頭に引用した、現世と言う牢獄を去る、という言葉は、実は主人公ウェルテルがシャルロッテ嬢に会う前の日記。実はここからすでに主人公が「自殺」について考察しています。こういう伏線がゲーテのすごいところ。(と、解説に書いてありました。スミマセン。)


報道から教育へ


何より、決定的に違うのは、自殺をアルベルトが「自分の意思で行うもの」と捉え、ウェルテルは「環境に追い込まれるもの」と捉えていること。この二つが、「信じる神の違い」として「対等」な意見であることは、注目する価値があると思います。


最近の報道を見ていて思うのは、これこれのいじめが自殺に追い込んだのではないかと見られている的な報道、外的原因の探求に目がいくばかりだなということです(もっともニュースで内的原因を止める話は無理でしょうけど)。校長の記者会見だの、学校叩き、それも大変結構です。アンケートをやりました、いじめ撲滅につとめます、きちんと話し合います、それも大事なことだけど。しかしそれは問題の片面、「環境」でしかない。「本人の意思」をどうしていくのか。


環境の改善が、「『生きる』力を教育する」という大プロジェクトを後回しにする言い訳になってはいけないと思うのです。もちろん、辛くても生きるんだよ、と言ったって始まらない。ここで大人は何を示せるのか。いやむしろ、大人は、生きる力を見出しているのだろうか?



時代遅れの物語、されど


やがて屋敷は荒れ果てていきました。
まま母と娘たちが贅沢をしすぎたからです。
シンデレラは虐げられ、
屋敷中の仕事を押しつけられました。
それでもシンデレラは優しさを忘れません。
毎朝希望を新たにするのです。
“いつか幸せになれる”と。
 ― ディズニー映画「シンデレラ」、冒頭より


シンデレラは、幸せになりました。

あまりにも有名で、古典的、典型的なストーリー。でも、この映画、本当に王子様と結ばれたことが一番大事なのでしょうか。王子様との結婚も、まま母の意地悪も、描き方としてはむしろドライ。

それより一際輝いているのは、シンデレラとネズミを初めとする動物たちとの友情、厚い信頼関係のなせる業。そしてそのもとになっている、彼女の希望、そして優しさ、誠実さ、正直さ。結果ではなく、プロセスなのです。

だから、お嫁にいければ幸せだなんて時代遅れもはなはだしい、などという批判はこの作品についてはお門違いだと思います。おとぎ話の中ばかりに世界を夢見てる自分もバカみたいですけど、でもこの作品はやっぱり、いい。大人にも子供にも薦めたい、大好きな映画です。




そしてもう一つ。

カボチャの馬車も、雪のようなドレスも、妖精の魔法の「夢」でしかなかった。だから12時の鐘の音と共に、幻と消えた。でも、ガラスの靴だけ、なぜか手元に残るんですよね。夢がなければ、靴もなかった。夢が見れれば、靴が残るかもしれないのです。大人がしてやれるのは、そんな魔法のようなものじゃないのかな。



3連続の自殺シリーズも、ここでおしまい。
読んで下さった方、ありがとうございました。
【2006/11/11 01:06】 読書 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
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