スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
【--/--/-- --:--】 スポンサー広告 | page top↑
誰がための表現
友人の日記から聴かせていただきました。リストの「ラ・カンパネラ」。いろいろな演奏がCDやら何やらで出ている名曲ですが、この演奏はリアルなお化けです。是非お楽しみください。


(リスト作曲「ラ・カンパネラ」(ピアノ:エフゲニー・キーシン))

凄まじいですよね、この技巧。ただ、この記事では技巧はおいといて、表現についてちょっと思ったことを書きます。

==========

音楽の難しいところに「間の取り方」があります。音符をどこまで、休符をどれほどといった露骨なところから、微妙な強弱変化やテンポ変化、歌ならイントネーションや個々の子音の発音など、演奏側はたくさんのことを考え、実行する、それが「表現」です。そしてその「表現」を、「間」に変えていく、これがやっぱりプロの技術だと思います。


演奏していると表現にどんどん熱が入っていきます。そして、身体を動かす分、身体自体も熱を発してきます。汗もかきます。キーシンの演奏の熱血ぶりがすさまじいのは十分見て取れます。もちろん、お客さんだってテンションは上がります。身も乗り出して聞くでしょう。でも、ここで演奏者と聴衆では「温度」の上がり方が全然違う。表現は、そこを踏まえて設計しないと、痛々しいことになります。

  • テンポを上げたら速すぎた
  • フォルテッシモが絶叫になった
  • ゲネラル・パウゼ(=全休止)が長すぎた
  • アゴーギク(=テンポ変化)が利きすぎてフレーズが切れた

アマチュアの演奏でありがちな例です。しかし、キーシンの演奏を聴くと、当然ながらそれが微塵も感じられない。なぜか。それは、どれほど自分の熱が上がっていても、観客の熱における「いい演奏」に忠実だからです。大汗をかいたフェルマータ、一息つきたい、しかし、そこで一息つくのは演奏者の熱による要求であって、観客の要求ではない。自らが観客の熱で思い描ける一番いい演奏がうんと具体的であり、そしてその実現に向けて自らの身体欲求さえ超えてしまうような、強烈なエネルギーがあります。

などと書くと、たいそう難しいことのように聞こえますが、例えば、うんと難しい曲があってこれを「難しいからゆっくりやろう」とゆっくり弾いた演奏に感動できるでしょうか。「難しいから」というのは演奏者側の理由であって、聴き手の知ったことではない。聴き手は聴き手側の理想のテンポがあって、そこを汲み取ってもらえない限り感動は無理なのです。


表現も同じ。聴き手には聴き手の要求がある、演奏者はそこに耳を向ける必要があるのです。演奏者だってもともとは聴き手の耳から始まっているはず。なのに、演奏するときだけ演奏者の耳になってしまい、録音をまた聴き手の耳で聴いてみたら、アラアラ痛いことになってるじゃん、って、これではダメなのです。


お客さんに表現を伝えよう、それは大いに結構。でも伝えるべき表現がお客さん仕様のものかちゃんと考えたほうがいいんじゃないかナ、と思う演奏が、大学合唱団など特によくあるような気がします。

=========

キーシンに話を戻して。

上の動画でも、熱っぽくアゴーギクをかけようと思えばかけられるポイントは沢山あります。でも、そんなところで「お楽しみ」を作らない。大事なところを印象付ける細工をしながら、「その曲全体が作っている熱狂の渦」に引きずりこむ姿勢を絶対に崩しません。


旋律の変わり目が分かりやすいので、改めてチェックしてみると面白いかもしれません。注目すべきは、動画の残り時間でいうと1分30秒前後、1分15秒前後、そしてクライマックス直前の残り30秒前後の、一瞬の惹きつけと強烈なスピード感の対比。「感動するヒマも与えない感動」、これぞプロ中のプロの表現だと思います。


スポンサーサイト
【2007/04/09 00:55】 音楽 | トラックバック(0) | コメント(2) | page top↑
感動を超えて(2)
すいません、時間が空きました。前記事は、映画は「感動」で止まりやすいですが、それ以上の感想を持てるようになりたいなぁ、という話でした。

さて。


映画で感動した、というのはありますが、音楽で感動する、という人はどのくらいいるのでしょうか。
小説は?
建築は?
絵や彫刻は?
工業製品は?
他にはどんなもので感動しますか?

興味のある対象の方が感動しやすいでしょうが、それだけでしょうか?「(映画で流れた涙の量)÷(映画が好きな人)」と「(絵で流れた涙の量)÷(絵が好きな人)」を比較しても、かなりはっきりと差が出てくるように思います。それは、それぞれの芸術の本質的な違いから来るもの、もしくは、それによって人が感じる「感動」が異なっているように思います。音楽一つとっても、歌詞に自分を重ね合わせる感動と、楽器のみのジャズやクラシックなどの構築美への感動は相容れないものがある気がします。

例えば、映画・小説は「感動メディア」の代表格ですが、どちらも時間芸術、つまり読み手に時間的な意味で追体験させる芸術です。音楽もそうですが、ただし抽象度が圧倒的に高い。構築美の感動は分かりにくく、また歌詞による感動は追体験的というよりは、抽象的な歌詞を自己にひきつけた感動、とでも言いましょうか。

建築は?絵は?彫刻は?・・・このあたりは正直よく分かりません。腐っても建築専攻、建築を見て泣いたことはないわけではありませんが、絵や彫刻は(残念ながら?)皆無です。工業製品などいい例で、某メーカーの携帯電話を見てその美しさに「はぁ~」とため息が漏れ、歴史的大画家の油絵よりも見入ってしまうことも珍しくない、のに、それは「泣ける」類の感動とは程遠いのだから不思議なものです(そして、この例を一つ取ってみても、「泣ける」感動がいかに一面的感情でしかないかが分かります)。


抽象度と教養


今度は、映画のときと同様に話をメディアから受け手側に戻します。「泣ける映画」を観て、「・・アレってどこで泣けばいいの?」ととぼけているヤツは滅多にいません。ところが、音楽ではみんなが等しく「感動する」曲などないし、絵や彫刻に到ってはなおのことそう。人による違いが激しいのです。その背景には、感銘を受けることはあっても泣くことはない、というメディアの特徴もあるでしょうが、もっと踏み込めば、受け手の趣味嗜好や知識教養に大きく依存する芸術である、ということが言えそうです。だから、「泣ける映画」「泣ける小説」はあっても「泣ける音楽」「泣ける絵」はなく、代わりに「音楽で泣いた」「絵で泣いた」となるのです。


「聞いた風な話」という言葉があります。そこそこにいい話ではあるけれど、ありふれている話のことですが、「ありふれている」と分かるにはある一定の教養が必要、それがない人は純粋に「いい話」だと思うはずです。無知ゆえの感動。学歴ある大人は冷たい生き物です。一方で音楽はどうか。聴いて理解するのにある一定の教養や知識、習慣が要求されるようなものは、無知な人は理解に苦しむだけ。逆の現象が起こっています。


無知なる感動と教養による感動。この両端は、芸術の抽象度に直結しています。小説や映画を観るのに使っている感覚は、生活に強く根ざしたもの、・・誰もがうんと小さな形で体験していることが、壮大なドラマとなって提示されたものです。しかし、音楽や絵で使う感覚は、現代においてすでに日常から大きく逸脱しています。抽象の上に抽象を重ねた芸術。20世紀半ばから音楽界を席巻したポピュラー音楽というのは、抽象を追い求めて複雑化しすぎた近代音楽に対して再び日常に根を下ろさせる動き、と考えると、その意味が分かりやすいのではないでしょうか。


教養との鬼ごっこ


もちろんすべての作品が無知向けと教養向けに色分けされるはずもなく、すべての作品が両方の要素を持っていて、バランスがそれぞれ違うと考えるべきでしょう。ただし、革新的な作品は極めて高度な「教養」を要求する。それが社会の常識が追いついてきて、無知向けの要素を獲得していくと、奇作が名作に変わる、そして、社会が獲得した教養と要求した教養にズレが生じていったとき、作品は忘れ去られることになります。


個人と歴史は相似形。人間に関しても同じことが言えます。自分の教養の限界を超えた作品と出会い、嫌悪感を感じる。問題は、そこで要求された教養を感じ取り、自分で培えるか、ということです。そこから教養を培い、作品が要求していたレベルを飲み込んだときの快感は、一度経験すれば忘れられないものとなるはず。一方で、教養を培った結果、作品の要求した教養と(質的にであれ量的にであれ)あまりに大きなズレがある、と認識したときそれは食わず嫌いや「一目嫌い」の状態と比較して、はるかにハッキリした感情を持つはず。こうした教養と教養の距離感を測ること、これだって負けず劣らず作品の楽しみ方です。


泣いた、笑った、感動した、という肉体的反応も大いに結構。でも、「面白い」という間の抜けたような日本語の持つ意味はもっともっと大きく、作品を「面白い」という言葉の持つすべての意味で体験できるようになりたいと思うのです。



・・・最後まで読んでくださって本当に有難うございます。

ちょっとだけオマケ。↓

続きを読む
【2007/03/17 20:46】 音楽 | トラックバック(0) | コメント(2) | page top↑
馬の耳にも馬子にもチェロ
僕は都内の私立J北中高卒なんですけどね、家庭教師としてそこの後輩の数学を見ています。で、今日聞いたところによると、明日は音楽鑑賞会だそうなんです。

僕「へぇ、誰が来るの?」
生徒「何か有名な人らしいっすよ?ヤマグチ(←音楽の先生)が言ってた」
僕「何?歌?楽器?」
生徒「スティーブン何とか…。あ、チラシありますよ」

スティーブン・イッサーリス チェロ・リサイタル


イ、イ、イ、イッサーリス( ̄〇 ̄;)??
世界5本の指に入ろうかっていうチェリストじゃないですか!!
それが、J北の、あのオンボロ講堂に来るんですか!?



な、なんたる贅沢を。男子校の音楽鑑賞会なんて、1クラスに聴いてる人何人いるか分からない勢いですよ?「真面目に聴いちゃカッコ悪い」ですからね。ホントうらやましい、いつからそんなに金のある学校になったんだ。単位は足りてないくせに。


いいものを聴かせないと、という教育の配慮なのでしょうか。それにしても贅沢です。あー、失礼がないといいけど。


でも、全校生徒のうち、何人かが楽しんだり、何人かから芽が出れば、それで十分すぎるくらいでしょう。「楽しんできてよ」と出掛けに言ったら、彼は不思議そうにうなずいてました。



若いっていいな~。
【2006/11/17 02:32】 音楽 | トラックバック(0) | コメント(3) | page top↑
スーサイドのインサイド
前のエントリはちょっとマニアックすぎた感もなきしもあらずです。こういう作品レビューのようなものは、知ってる作品のところだけ「あぁ知ってる知ってる」と頷いていただければ結構なのです。毎度見にくくてスミマセン。


で、恋愛と自殺のことを書いてて思い出したんですけど、僕が大学1年のときにサークルで問答形式の自己紹介冊子を書かされまして、その質問に「理想の恋愛像は?」というのがあったんです。

ちょっとした新入生イジメですが、当時の僕の答えはというと、
「玉川上水ダイビングを止めあえる仲」

・・・意味不明( ̄〇 ̄;)!

小学校以来片想いでさえ経験のない、純情ボーイにいきなりそんな質問ムチャというものですよね、ね、ね。あ、もちろん僕は今でも純情ボーイです。

よね?


ちなみにその「玉川上水ダイビング」とは、作家・太宰治のことです。39歳の若さで、東京の玉川上水で愛人と入水自殺した太宰。高校時代はよく読んでました。たぶん何も理解してなかったと思うけど、だから今読んだら絶対に違う。だから読みません。


小殺家の生涯


天才は自殺するもの、昔からそう決まっています。だから自殺がカッコいいということになってしまうのかもしれませんが、しかしそれにしても小説家ほど自殺してしまう人たちはいないのではないでしょうか。


ちょっと名前を挙げてみるだけでも、有島武郎、芥川龍之介、太宰治、川端康成、三島由紀夫…と怪物たちの名前が次々と出てきます。まさに、日本の近代文学史の半分は自殺者が占めているのではないか、とさえ思わせます。


孤独で幻想的な仕事がそうさせるのか、
才能の枯渇を恐れた結果なのか、
大先輩の後を追うのか。


ただ、同じ「物書き」でも、作曲家の方が圧倒的に自殺は少ない気がします。有名作曲家で自殺した人…僕には正直思い浮かびません。書いているものが抽象的だからか、指揮をしたり演奏したり、人との接触の機会が多いからなのか。だからこそ、人間の内省の音楽的描写に半生をつぎ込んだチャイコフスキーの死因に「自殺説」がある(一般的にはコレラと言われている)のが妙に気になるのです。


鬱なときに人と話せること。
一見当たり前のものこそが、最後は命綱になる。
全てはここに行き着く気がします。


自殺ネタ。しつこいですが、もう1回分続けます。
【2006/11/08 00:56】 音楽 | トラックバック(0) | コメント(2) | page top↑
マテネーコンサート
ちょっと面白いコンサートがあるので紹介します。

2007年3月5日(月)午後2時開演
東京オペラシティ・コンサートホール

指揮とお話:小林研一郎
ピアノ:清水和音
アーネム・フィルハーモニー管弦楽団(オランダ・初来日)

[曲目]
ベルリオーズ:序曲《宗教裁判官》op.3
チャイコフスキー:バレエ組曲《くるみ割り人形》op.71a
チャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番 変ロ短調 op.23

[料金]
S:\7,000 A:\6,000 B:\5,000 C:\4,000(全席指定・税込)

http://www.operacity.jp/concert/2006/070305.php


ね、面白いでしょ?



・・・。





何が面白いか分かりましたか?これ、平日の真昼間のコンサートなんです。その名も、「ウィークデイ・ティータイム・コンサート」。何でも、
平日の昼下がり、おとなのための気軽で本格的なオーケストラ・コンサート

だそうです。

ティータイムってったって会場は飲食禁止じゃないか、という突っ込みはぐっとこらえなくてはなりません。そりゃあ、平日の昼間にやったら周りに人がいなくてさぞ座席の快適性が追求できるでしょう、そして「オトナのための」と割り切ってちゃっかり値段は取っているのも納得ですね、などというイヤミ・毒舌とは、僕は縁もゆかりもありません。


ただ、(一つの演奏会で)何が最善か、だけではなく、音楽文化の中での一つのニーズに注目した実例として面白いと思います。あらゆる商品開発やサービスで見られた、20世紀は最適解を追求した時代、21世紀は多様性を探求する時代という構図がこんなところにもあるんだ、と。


別に平日の昼間にやるコンサートもないではないですが、このコンサートの小林研一郎と言えば世界に名だたる大指揮者です。それが海外の、それも初来日のオケを率いてこういうコンサートをやる、というのはただ単に「しょうがない」とか「試みとして」とかいうレベルではないのでしょう。意外と満席になったりしてね。

========

ついでに、協奏曲をメインに据える演奏会はプロではかなり珍しくて、そっちも多少気になります。しかし、ぶっちゃけて言うと、在外初来日オケがせっかくの公演のメインを協奏曲にし、挙句の果てにソリストが日本人となったら、何がしたいんだか僕には正直よく分かりません。もしかしてこのオケ、とてつもなく××なんじゃないか、などと思ってしまう、なんて、そんなヨコシマな考えを僕が持つはずがないじゃないですか


ちょっと行ってみたいですね。別に平日の昼間にやる、というだけでこの料金を払ってまではたぶん行かないとは思いますけど、客層に興味があるのです。お客がどのくらい入るか、どんな人たちが来るか、それはコンサートの欠かすことのできない楽しみの一つです。行くにしても、作るにしても、ね。
【2006/10/18 02:42】 音楽 | トラックバック(0) | コメント(4) | page top↑
| ホーム | 次ページ
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。