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新建築と建築展
東京ミッドタウンが今日オープンしましたね。しかし六本木経済新聞によれば、「東京ミッドタウンを知らない」が48.1%を占めるんだそうです。これだけお金をかけた再開発も、これだけの認知度なのかと思ってしまいますが、それにしたって、六本木経済新聞を知らない人が48.1%を余裕で占めてる気がしてなりません。

一応簡単に書いておくと、六本木にあった旧防衛庁の跡地(六本木ヒルズのすぐ近く)に、オフィスだの商業施設、高級ホテルだ高級賃貸住宅だのが入る、六本木ヒルズ2号みたいな感じです。コナミの本社だのヤフーだの、おしゃれなTSUTAYAだの、赤坂にあったサントリー美術館だのが入り、(どうせ学生には手が出ないほど高価なものが並ぶであろう)インテリア店だの飲食店だのが入るんだとか。

このページが分かりやすいです。

表参道ヒルズのときもオープンからしばらくは人が溢れていたので、しばらく経ったら行ってみようかと思っています、が、今行くと面接のネタくらいにはなるのかなぁなどとヨコシマなことを考えてみたり。


あと、東京ミッドタウン内にある建築家・安藤忠雄が設計したデザイン施設「21_21 DESIGN SIGHT」では、オープニング特別企画として「安藤忠雄 2006年の現場 悪戦苦闘」が開催されるらしいです(詳しくはこちら)。4月18日までと公開期間が短いので、早めにいかないとまずそうですね。


そういえば、都知事選で話題の黒川紀章設計の新国立美術館は見てきました。なかなか面白い建築でした。展示もなかなか。マニフェストもなかなか・・げふんごほんぶすん


ブルーノ・タウト


建築に興味のある人向けに(何人いるんだ?)書いておくと、ブルーノ・タウト展も注目の展覧会です。ブルーノ・タウトは、ナチスから日本に亡命した東ドイツの建築家。日本の各地を廻り、「桂離宮」「建築芸術論」「日本文化私観」などの著作を通して、日本建築・日本文化の美しさを「再発見」して世界に発信した建築家です。

代表作「グラス・ハウス」の3次元モデル写真はこちら

展覧会情報はこちらにあります


これも勉強、しかし勉強はこれにあらず


歩きまくりです。国立新美術館に黒川紀章展、東京電力の電力館に駒沢の住宅展示場、TOTOのショールームを見ては住宅メーカーの説明会やら面接やら。ひたすら足で「勉強」していますが、同じエネルギーで机に向かえたらなぁと思う今日この頃です。
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【2007/03/30 13:14】 建築・美術 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
うれるうらない、しんじられない
コメントでちょっと書きましたが、第一志望企業に落ちました。何で落ちたかって、筆記試験で落ちたんだから笑うしかありません。あらら、アウト・オブ・眼中ですか。思い入れが入る前にアウト・オブ・眼中じゃ、未練もヘッタクレも感じられません。


テストは数学(統計)と国語と性格診断でした。


数学は、腐っても東大理系の名にかけて負けるわけにはいかないのですが、とても全部は終わりませんでした。数学というより計算力勝負でしたが、有効数字4桁5桁の計算ばかり。めんどくせぇぇ。


国語もちょっと変則的です。曰く、本文を読み、趣旨に適合するものにはA、適合しないものにはB、論理的に判断できないものにはCを記入する、というもの。


一見フツウの問題ですが、受験国語に慣れた身にはツライ。「適合しない」ものと「論理的に判断できない」のは、受験ではどちらも×。ここを区別するのに神経を使います。さらに注意書きにはこんな一言。

「言葉尻を捉えて判断しないこと」

ちょっと待て。言葉尻ってどこからどこまでだ( ̄〇 ̄;)。
短時間のスピード勝負の中、結構混乱しました。


あなたのハートを診断します


性格診断。これが一番意味が分からないのです。同じような質問が何度も何度も繰り返し出され、YES・NOで答えていく、まぁ占いみたいなもんですが、一応は採用試験。当然、あんまりバカ正直にも答えられません。
設問「グループの作業でも、周りの意見を聞かずに進めていく」

こんなのにYESとは答えるバカがどこにいるのだ。


ところが、中にはこんな質問もある。
設問「自分は謙虚な方である。」

なんじゃこりゃ∑( ̄口 ̄)??
一体、どっちで答えたら「謙虚」なんでしょうか?


実際の問題の形式は、単純にYES・NOを答えるようなストレートはものではなく、「4つの選択肢のうち、自分に最も当てはまると思ったものと最も当てはまらないと思ったものにチェックをつける」というもの。これだと、姑息な操作はかなりしづらい。

後日、全く同じ問題を別の企業で受けて、結果が開示されました。あらゆる能力が二項対立になっていて、自分がどっちのタイプかが示されています。ドキドキです。例えばこんな感じ。
例)
まわりに流されない ☆☆☆☆★☆☆☆☆☆ 場面にあわせて行動する
臨機応変にやる ☆☆☆☆☆★☆☆☆☆ 計画的にやる


だいたい僕の★マークは真ん中近辺にありましたが、一個だけ振り切ってしまったのがありました。
「感受性が豊か」★☆☆☆☆☆☆☆☆☆「プレッシャーに強い」
はっきり言って、感受性なんてのは企業には要らない。つまり、「極端にプレッシャーに弱い」と診断されたようです。10段階評価の1ですからね。確かに考えてみれば、人に何と影で言われるのか気になって、僕は下ネタなんて全然言えない性格です(そこ突っ込まない)。足きりはここか?


あなたのテストを診断したい


しかし性格診断と言うのも難しいものです。確かに、膨大な量の設問を課し、言葉を変えて繰り返し聞けば、ウソを防ぐことはできるかもしれない。しかし、自分の性格や行動特性を完全に勘違いしている人はどうやって見つけるのでしょうか。特に「自分は○○な方である、YESかNOか」みたいなのは、勘違いヤローは堂々と勘違いで答えられると思います。


それから、その人の環境の変化も際どい。大規模コンサルのグループワークのときには、僕なんぞ「うなずきマシーン」にしかなりませんでしたが、某・中規模メーカーのグループワークでは「自分が動かないと何も動かない」をリアルに体感しました。つまり、「自分はグループを統率することが苦手だ」にYESと答える人が、周りの環境によってNOであることも大いに考えられるのです。トーダイセーとか、柏葉技系とか、奇人変人軍団の中で培われた自己認識に、いったいどれほどの信憑性があるんでしょうか。


つまり、自己分析テストから導かれるのは、「自分はこういう人間である」ではなく、「自分はこういう人間だと(潜在的に)自分で思っている」ということでしかない。「周りの意見を聞きながら物事を進めていくほうだ」にYESと答えた人がいたとして、じゃあ「周り」の人が意見を聞かれている気分になっているか、というと全く別の話な気がします。確かにYESと答えるにはそれなりのバックグラウンドがあるからYESと答えてるのでしょうが、それだって自分が自己分析に使うのと、企業が採用に使うのとでは全く意味が違うんじゃないかな。


・・なんてことを、心理テストを作っている先生方が考えてないわけがないから、その辺りも何かしら処理がされてるんだろうけど、それが如何なる仕組みなのかがよく分からないし知りたいところです。



はい、以上、負け惜しみでした。・・・んにゃろぉおおおお。
【2007/03/28 13:12】 就活 | トラックバック(0) | コメント(10) | page top↑
豊かさゆえの貧しさ
携帯買い替えシーズンです。僕の携帯は2004年の秋に買ったもの(しかも最新じゃなく)。今まで世間の買い替えシーズンという試練を幾度となく乗り越えてきたのですが、最近アドレス交換のたびに言われる言葉が、ささやかに僕のハートをスクラッチしていきます。

  • 「年季入ってるね~」
  • 「あ、すげぇ、アンテナついてる!」
  • 「え、赤外線ないの?」

「知らないの?これが最新の赤外線カットモデルだよ?」とかボケて失笑を買うのもいい加減飽きてきました。就活の身ですが、そろそろ替えたい気分です。


赤を求めて


今使っている携帯は赤ですが、何を隠そう僕は赤が大好きなのです。赤といっても濃い赤でなくてはなりません。理想はワインレッド。紅色なんて論外です。ところがそれだとauにはない。こうなったら他社に乗り換えるしかありません。幸いナンバーポータビリティーというシステムが整いましたしね。


という話をしたら、色ごときでそこまでするか、と友達に笑われましたが、しかしやっぱり僕はデザイン一番です。例えばワンセグ携帯でL字型に画面を倒すものなど、思わずこっちの首が曲がってしまいそうで見てられません。あと、auはイメージカラーだからかオレンジ色の製品をポンポン出してるのが心底ゲンナリ。今度出るメディアスキンとかいう一風変わったデザインのものは、ラインナップが黒と白となぜかオレンジ。不自然さをごまかすためか、写真で手の色をオレンジ色にしている苦し紛れ感が最高です。この製品に関しては好きそうな人はいそうですが、しかし売れはしなかろう。着せ替えとかにすりゃいいのに。




あと、開いたときにカチッっていう音がしますが、僕はあれが大嫌いです。音がしない、が絶対条件。たまにご親切に二段階カチッカチッと鳴るやつもありますが、憎しみさえ覚えます


完成形の、そのまた先


・・・と、ここまでは好みのタイプを語って暴走しただけで、ここからが本題。カメラ機能が搭載されて、今や500万画素携帯まであります(僕のデジカメは400万画素だというに)。かつては「骨振動でうるさい場所でもよく聞こえる」みたいな通話方面の差別化もありましたが、ハッキリ言ってそっちの試みはもはや絶滅寸前。画素数を上げる、音楽を聴ける、テレビを見られる、そしてとことん小さく軽く、料金体系で斜め上を行ってみたりするキューピー社長まで現れる始末。


「ケータイ」はもう電話にあらず。「通話機能付きデジカメ」なんて言い方さえもう古く、QWERTY搭載なら「ポケットサイズパソコン」、ワンセグなら「キャリングテレビ」、デザインで選ぶ僕としては「2年間毎日着る服」を買う気分です。


通話はおろか、カメラも基本。勝負の行方は付加価値です。果てしなくどうでもいい大問題を抱えた現代、何とも不思議なものです。でも、実は携帯電話が登場した時点では、通話機能でさえ「付加価値」だったはず。ワンセグが「付加価値」になり得た裏には、通話が常識になったことがある。建築などまさにそれ。ハッキリ言ってどんな家でも住めるんです。台所があってお風呂があってトイレがあって、入り口がきちんとして車も出入りでき、南向きに窓があって北側に収納があって、そんな家はいくらでも建てられる。大量生産して町を作ってみんながそこに住めばいい。そう考えて出来たのが51C型という集合住宅のモデルで、それは戦後すぐに完成してしまいました。





隣の田中さんよりワンランクはいい家を建てたいわね


ところが、人はそこに満足しない。「もっともっと」「あれもこれも」を繰り返し、現代の住宅はといえば、コミュニティーだのアメニティーだのサステイナビリティーだの訳の分からない横文字を並べてエラソーに意味づけをしているものばかり。徹底的な付加価値の探求のうちに本当に革命的なものが生まれる可能性はあるけれど、個別の一軒一軒にそれを求めるのは無理があります。


台所が寒い家が建たない。
段差のある家が建たない。
基本レベルはぐんぐん上がって、今はと言えば「一体感を持ちつつプライベートが守れる家」だの「壁がなくて空調が効率いいもの」だの、もはやパラドクスの世界。顧客のワガママはエスカレートし、なのに土地は有限、予算は有限ときたもんです。そしてその中で差別化を図らないと、住宅産業の会社はつぶれてしまう。アネハは時代の象徴であり、彼の逮捕はなるべくしてなった現代の内出血とも見られます。


そして苦しいのは会社だけではありません。同じ予算でどの材がいいのか、どのプランがいいのか、どの会社がいいのか、頭を抱え、足を使い、場合によっては全てが終わっても後悔する人もいるかもしれません。「一生に一度の買い物ですよ」。「一生に一度の買い物」が営業さんに翻弄されるのです。


豊かさゆえの貧しさ


努力するのも大いに結構。でも、商品にしても何にしても、無理な領域は必ずある。それを嘆き悩み泣き明かす前に、果たしてそれが付加価値なのか必要なものなのか、はたまた付加価値だけど自分として譲れないものなのか、そこを正視することで見えてくるものが必ずあるはず。


かつて通話は付加価値でした。音楽ケータイは今の付加価値です。だけど、通話が基本レベルになったように、音楽ケータイがいずれ付加価値の域を脱するものだ、とは僕には思えません。しかし音楽ケータイにこだわりを持つ人なら、それはその人にとっての必要なものとも言えます。付加価値は多様化するものです。その多様化の中で、企業は必死に基本レベルになりうる付加価値を探しているし、基本レベルの達成に失敗したらもちろん、付加価値でしかない付加価値が未熟だというだけで、企業は生きていけなくなります。


僕のようにデザインという付加価値にこだわる人も少なくないのでしょう。販売店に並ぶモデルの待ち受け画面、かつては「いかに文字が見やすいか」と、アドレス帳やメール画面が表示されていたはず。最近の展示は「デザインをいかに美しく見せるか」に焦点を当て、見事なまでの画像がはめ込まれています。





豊かな国、日本。生きるか死ぬかの瀬戸際で暮らす人々を尻目に、かつてないレベルの豊かさ、多様化、相対性が実現されています。でも、その裏には、同じくかつてないレベルの、醜く厳しい争いと淘汰、基本レベルの恐ろしいまでの画一性がある。情報が整理され、何もかもが容易に見比べられる。一覧性の優れたカタログが出来、価格コムのような比較サイトが充実する。求めるものは、付加価値なのか、必要なものなのか。



・・・薬局でリアップを見ながらそんなことを考えた、うららかな春の日の日記でありました。
【2007/03/21 00:41】 建築・美術 | トラックバック(0) | コメント(2) | page top↑
感動を超えて(2)
すいません、時間が空きました。前記事は、映画は「感動」で止まりやすいですが、それ以上の感想を持てるようになりたいなぁ、という話でした。

さて。


映画で感動した、というのはありますが、音楽で感動する、という人はどのくらいいるのでしょうか。
小説は?
建築は?
絵や彫刻は?
工業製品は?
他にはどんなもので感動しますか?

興味のある対象の方が感動しやすいでしょうが、それだけでしょうか?「(映画で流れた涙の量)÷(映画が好きな人)」と「(絵で流れた涙の量)÷(絵が好きな人)」を比較しても、かなりはっきりと差が出てくるように思います。それは、それぞれの芸術の本質的な違いから来るもの、もしくは、それによって人が感じる「感動」が異なっているように思います。音楽一つとっても、歌詞に自分を重ね合わせる感動と、楽器のみのジャズやクラシックなどの構築美への感動は相容れないものがある気がします。

例えば、映画・小説は「感動メディア」の代表格ですが、どちらも時間芸術、つまり読み手に時間的な意味で追体験させる芸術です。音楽もそうですが、ただし抽象度が圧倒的に高い。構築美の感動は分かりにくく、また歌詞による感動は追体験的というよりは、抽象的な歌詞を自己にひきつけた感動、とでも言いましょうか。

建築は?絵は?彫刻は?・・・このあたりは正直よく分かりません。腐っても建築専攻、建築を見て泣いたことはないわけではありませんが、絵や彫刻は(残念ながら?)皆無です。工業製品などいい例で、某メーカーの携帯電話を見てその美しさに「はぁ~」とため息が漏れ、歴史的大画家の油絵よりも見入ってしまうことも珍しくない、のに、それは「泣ける」類の感動とは程遠いのだから不思議なものです(そして、この例を一つ取ってみても、「泣ける」感動がいかに一面的感情でしかないかが分かります)。


抽象度と教養


今度は、映画のときと同様に話をメディアから受け手側に戻します。「泣ける映画」を観て、「・・アレってどこで泣けばいいの?」ととぼけているヤツは滅多にいません。ところが、音楽ではみんなが等しく「感動する」曲などないし、絵や彫刻に到ってはなおのことそう。人による違いが激しいのです。その背景には、感銘を受けることはあっても泣くことはない、というメディアの特徴もあるでしょうが、もっと踏み込めば、受け手の趣味嗜好や知識教養に大きく依存する芸術である、ということが言えそうです。だから、「泣ける映画」「泣ける小説」はあっても「泣ける音楽」「泣ける絵」はなく、代わりに「音楽で泣いた」「絵で泣いた」となるのです。


「聞いた風な話」という言葉があります。そこそこにいい話ではあるけれど、ありふれている話のことですが、「ありふれている」と分かるにはある一定の教養が必要、それがない人は純粋に「いい話」だと思うはずです。無知ゆえの感動。学歴ある大人は冷たい生き物です。一方で音楽はどうか。聴いて理解するのにある一定の教養や知識、習慣が要求されるようなものは、無知な人は理解に苦しむだけ。逆の現象が起こっています。


無知なる感動と教養による感動。この両端は、芸術の抽象度に直結しています。小説や映画を観るのに使っている感覚は、生活に強く根ざしたもの、・・誰もがうんと小さな形で体験していることが、壮大なドラマとなって提示されたものです。しかし、音楽や絵で使う感覚は、現代においてすでに日常から大きく逸脱しています。抽象の上に抽象を重ねた芸術。20世紀半ばから音楽界を席巻したポピュラー音楽というのは、抽象を追い求めて複雑化しすぎた近代音楽に対して再び日常に根を下ろさせる動き、と考えると、その意味が分かりやすいのではないでしょうか。


教養との鬼ごっこ


もちろんすべての作品が無知向けと教養向けに色分けされるはずもなく、すべての作品が両方の要素を持っていて、バランスがそれぞれ違うと考えるべきでしょう。ただし、革新的な作品は極めて高度な「教養」を要求する。それが社会の常識が追いついてきて、無知向けの要素を獲得していくと、奇作が名作に変わる、そして、社会が獲得した教養と要求した教養にズレが生じていったとき、作品は忘れ去られることになります。


個人と歴史は相似形。人間に関しても同じことが言えます。自分の教養の限界を超えた作品と出会い、嫌悪感を感じる。問題は、そこで要求された教養を感じ取り、自分で培えるか、ということです。そこから教養を培い、作品が要求していたレベルを飲み込んだときの快感は、一度経験すれば忘れられないものとなるはず。一方で、教養を培った結果、作品の要求した教養と(質的にであれ量的にであれ)あまりに大きなズレがある、と認識したときそれは食わず嫌いや「一目嫌い」の状態と比較して、はるかにハッキリした感情を持つはず。こうした教養と教養の距離感を測ること、これだって負けず劣らず作品の楽しみ方です。


泣いた、笑った、感動した、という肉体的反応も大いに結構。でも、「面白い」という間の抜けたような日本語の持つ意味はもっともっと大きく、作品を「面白い」という言葉の持つすべての意味で体験できるようになりたいと思うのです。



・・・最後まで読んでくださって本当に有難うございます。

ちょっとだけオマケ。↓

続きを読む
【2007/03/17 20:46】 音楽 | トラックバック(0) | コメント(2) | page top↑
感動を超えて(1)
「○○という作品を読んで泣きました」みたいなコメント、映画でよく見かけますが、僕はあまり好きではありません。というのも、「泣ける映画」を観たいと思わないからです。むしろ安易なものが多い気がしてなりません。


泣ける映画


例えばチャン・イーモウ監督の映画「至福のとき」

お見合いに失敗した男が、盲目の少女を引き取ります。彼女を不憫に思った彼は、少女がマッサージが得意だということで、マッサージの仕事をさせて生きがいを与えようと考えます。少女は一生懸命働きます。彼は彼で自分の友だちを集め、客になってくれ、と頼み込む。少女に渡すお金がなくなり質屋に走り、ついには白紙の紙幣を…、という物語。
青い空は見えないけれど
輝く星も見えないけれど
私はあなたの心が見えます。

強烈です。泣かない人はいないんじゃないか、というくらいの作品です。




しかし、泣くだけ泣いた後に冷静に思い返して、「作品がすごいからその結果泣いてしまう」というよりは、ふんだんに泣かせる仕掛けが施されているのが分かります。ストーリーも演出も、全力を挙げて「泣かせ」に走る。それは作品の作り方としては極めて分かりやすい安易な部類だと思います。完全な目的あっての芸術。鑑賞者に「?」が残ってしまっては感動させられません。だからいかに「?」を排除するか、一面だけに注目するかで組み立てる、それが(映画に限らず)泣かせる作品の作り方です。

ただ、それで本当に泣かせる作品が出来るわけではありません。やっぱり作り方はうまい。その一面を最大級に引き出せなければ、「泣ける映画」にはならないのです。僕もいろんな映画で泣きますし、泣いた映画でいいなと思ったものは少なくありません。でも、所詮は一面でしかない。

映画の可能性は、泣かせるだけじゃありません。だから「泣ける映画です」などとコメントされて、この映画が表現しているのはその一面なのか、と思ってしまうと逆に残念なくらいです。もっともっと大きな表現を、僕は映画に期待します。


泣けるコメント


泣けるという「コメント」の方に話を戻します。これらが多い理由として考えられるのは、次の2つ。

まず、レビューという文章の体質。これこれという感想を持ちました。これこれだと考えました。と書くより、圧倒的に「泣きました」と書くほうがラク。抽象的な思考より、具体的・肉体的反応の方が文章に起こしやすいのです。特に有名人レビューのような短さが求められる文章では、あらゆるリスク・コスト回避につながります。


2つ目の理由は、人々が極めて強いレベルで「感動」を求めていることです。涙を流したい、そして涙を流せるほど「やさしい」自分でいたい、という、それは言わば「感動する自分」を求めている現象です。
「また泣いちゃったよ」と照れずに語る若者を見ていると、そうやって泣けるような状況に自分がいるということで、何かを確認しているのではないかとも思える。つまり、自分はその他大勢として生きているわけではない、泣けるような特別なできごとを経験しながら生きている、ということだ。

だれもが「泣ける物語」を求めて本を読み、映画を見るようになってきている。「泣かなければ自分が何者かもわからなくなってしまう」という危機感が、世の中全体に広がっているのだろうか。
 ― 香山リカ「若者の法則」(岩波新書)


感動したということを言いたい。その気持ちは自分にもあります。でも、それだけに惹かれて映画を観て、それだけを確認して終わらす観方を僕はしたくない。映画の表現に様々な可能性を期待すると同時に、自分が感動以外の感想を持つことを期待したいのです。



・・・話を音楽に飛ばします。が、それは次回へ。


(註)「至福のとき」は泣ける方面では強くお勧めします。(ホント)
【2007/03/13 01:46】 映画 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
近況報告
更新してなくて申し訳ないです。
リアル忙しいのもそうですが、就活で体調を崩すことも多くなりました。

2006年から2007年へ。
  • 柏葉を「引退」して、
  • かてきょ×2の全日程が終わり、
  • 塾バイトを今年の高校受験まででやめ、
  • 今は就活、
  • そしてそろそろ修論へ。

生活は大変化の予感。生活パレットから柏葉とバイトという二つの大きな色が抜け、構図がないまま気付けば2007年キャンバスも4分の1が埋まっちゃってます。

うちの研究室は完全に個人プレイ。柏葉&バイトと組織から次々と抜け「定期的に人と会う」機会を失った生活には、まだ慣れてません。というかどちらかというと正直しんどい。ここ2日は湯水のごとくお金を使い、機関銃のように人と話しました。はうぁ。


就活ですが、去年「絶対にこの業界には就職しない」と名指しで断言していたところがいつの間にか第1志望になりつつあります。「イヤよイヤよも好きのうち」をリアルに体感。

あと、本気で就職留年が怖くなくなってます。それならそれで半年は浮くだろう、みたいな。


留年は落ちてから考えます。今日はこれから筆記試験。はうぁ。
【2007/03/12 15:19】 雑記 | トラックバック(0) | コメント(2) | page top↑
時間のキャンバス~ミヒャエル・エンデの「モモ」
時計というのはね、人間ひとりひとりの胸の中にあるものを、きまめて不完全ながらもまねて象(かたど)ったものなのだ。光を見るためには目があり、音を聞くためには耳があるのとおなじに、人間には時間を感じとるために心というものがある。そして、もしその心が時間を感じとらないようなときには、その時間はないもおなじだ。
(― ミヒャエル・エンデ作、大島かおり訳「モモ」より、強調:引用者)


なんてすごい「童話」なんだろう。「児童文学」というジャンルで、これだけのことを語れる本が他にあるでしょうか。現代を痛烈に批判する一方、人間の本当に大切(と思われる)なものを、グイグイと見せ付けられる思いがします。

時間を感じる心。今日の僕はと言えば、午前中は就活に出て、ファーストキッチンで本を片手に昼食をかきこみ、語学を2時間ほど勉強して、本郷に行って院生室で用事を済ませ、バイトに行って帰ってきてブログを更新しています。だから時計は何度となく見ています。でも、時刻を確認することと時間を感じることには雲泥の差があるのです。


この作品は、あるのんびりした街に住むホームレスの少女・モモが、人々から時間を盗もうとする「灰色の男たち」と対決するお話です。読んだことがある人も多いとは思いますが、一応簡単に。


簡単なあらすじと、哀れなフージー


灰色の男たちは、市民一人ひとりを訪問します。その人が、「立派になりたい」と思っていることを知っている彼らは、彼らがいかに時間を無駄にしているかを説いていきます。

時間を節約して「時間貯蓄銀行」に預けること、そうすれば、利子がついて将来倍になって返ってくるのだ、と。では、時間を預ける、とはどうすればよいのか。例えば1日に2時間節約したとします。つまり1日でやることを22時間で行う。そうすると気付かない間にふっとその2時間が消えている、というのです。

床屋のフージー氏のところに来た灰色の男たちは、フージー氏がいかに「時間を無駄にしているか」を数字で示します。そして次々と具体策を示していく。

1時間かけていたお客は15分で髪を切る。余計なおしゃべりはしない。インコはペット屋に売り、病気の母親は老人ホームへ、毎日会っていた恋人とは2週に1度しか会わない…。

でも、灰色の紳士は、彼の記憶からさえ姿を消してしまうので、フージー氏はその変化さえ自分で感じられないのです。それを本文ではこのように表現しています。

毎日毎日がますますはやくすぎてゆくのに気がついて愕然とすることがあっても、そうするとますます死にものぐるいで時間を倹約するようになるだけでした。


どれほど忙しくても、充実を味わえない人。ぎくりとしませんか?


充実の末路


そして、エンデの描写の勢いはとどまるところを知りません。引用が多くなって恐縮ですが、「これが童話かよ」と突っ込みたくなるクオリティに驚かされること請け合いです。いや、そんな客観的に読む余裕は僕にはありませんでした。身につまされるのです。

たしかに時間貯蓄家たちは、あの円形劇場あとの近くに住む人たちより、いい服装はしていました。お金もよけいにかせぎましたし、使うのもよけいです。けれど彼らは、ふきげんな、くたびれた、おこりっぽい顔をして、とげとげしい目つきでした。


時間をケチケチすることで、ほんとうはぜんぜんべつのなにかをケチケチしているということには、だれひとり気がついていないようでした。じぶんたちの生活が日ごとにまずしくなり、日ごとに画一的になり、日ごとに冷たくなっていることを、だれひとり認めようとはしませんでした。


彼らは余暇の時間でさえ、すこしのむだもなく使わなくてはと考えました。ですからその時間のうちにできるだけたくさんの娯楽をつめこもうと、もうやたらとせわしなく遊ぶのです。



灰色の現代史


この物語に出てくる何人かの人は自分たちの変化に気付いていて、「時代がすっかり変わってしまった」ことを嘆きます。灰色の男たちによって時代が変えられたのなら、変わったポイントが明らかだから。

だけど、この本が皮肉る現代はそうではない。あらゆる事務処理がスムーズになり、手間が省ける時代に、なぜどんどん人手が必要になるのか。一日中家を空け、家と会社を往復するような生活を「当然」と言う人がどれほど多いか。潤沢な時代に、社会的なわずかな付加価値のために、その争いに躍起になったために、現代人はどれほど時間を感じる心を失っていくのか。

昔はよかった、などと言いたいのではないし、言える年でもありません。ただ、僕らが「充実」と呼んでいるものは、もしかしたら極めて根源的な問題かもしれないということです。企業戦士の父親を見て育つ、学歴社会を生き残る、教育の段階からの、灰色の現代史の影響なのかもしれません。

自分だって、お金も名声も欲しい。外資金融の説明会に行けば、そこの人たちの目のあまりの深さに驚くはず。きっと彼らは、素晴らしく充実した人生を過ごしているんだろう。彼らのほとばしる知性のオーラに圧倒されます。でも、そこにオーラを感じること自体が、教育された灰色の感覚かもしれない。いや、それでもやっぱり、美しい。うらやましい。どちらがいいかの結論は出せません。灰色呼ばわりが負け惜しみと堕落の一歩である危険は十二分にあります。結局は充実かゆとりかの二項対立ではなく、歴史と個人の問題なのです。


話を戻します。


何の時間を節約しているか


充実している人は、たいがいにおいて、同じ時間に人より多くのことをやっています。でも、彼らがいかに多くのことをやっていても、決定的に持っていないものがある。それは「受け皿」です。

バイトでの雑務を、断らざるを得なかった。
遊ぼうよ、と声をかけられても、断る。
会いたい人と、予定が合わなくてあきらめる。
その他、電話に出られない、眠くなる、ブログが更新できない…。

あらゆる充実は自分のためのもの。充実はタダではない。ちゃんと犠牲を伴っていることを知るべきなのです。人への時間は、ゆとりの中からしか生まれない。ゆとりを削って充実させていくことは、時として大いに必要ですが、人への時間を削る可能性を否定できないことなのです。


灰色の男たちに立ち向かった少女モモ。彼女の特技は「人の話を聞くこと」でした。貧乏で何も持っていない、あるのは時間だけ。そんな「人に分け与える時間」しかない少女が、灰色の男たちと対決する、その構図に、作者・エンデはどんな思いを込めたのか、何となく分かる気がしませんか。




灰色の男たちは、「葉巻をくゆらし、書類カバンを持った紳士」でした。この本は、まだ書類カバンを持たない人、そして持った人にもお勧めの「童話」です。


1ヶ月のインターンを辞退しました。これでよかった、と思いたいです。
【2007/03/01 02:50】 読書 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
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