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若きウェルテル、悩んでも死ぬな
「どんなに浮世の束縛を受けていたって、いつも胸の中には甘美な自由感情を持ち続けているんだ。自分の好む時に、現世と言う牢獄を去ることができるという自由感をさ。」
 ― ゲーテ「若きウェルテルの悩み」(高橋義孝訳)


「わ、これ、絶対読まないほうがいいよ?男のウジウジした悩みばっかでほんっっっっと、キモチワルイ!」と、生協書籍部で同期の友人に「薦められた」のが3年前でしたっけ。そうか、そんなひどいのか、と当時は思ってましたが、ついに手を伸ばしてしまいました。


…で、面白かったです笑。


アルベルトとウェルテル


「若きウェルテルの悩み」は、ご存知のように、「人妻」に恋焦がれる青年の日記で、最後は愛する人に突っぱねられて拳銃自殺する、超インモラル小説です。まぁ片想いの話はここではさておき、自殺についての記述がなかなか面白い。


例えば、本文中程に、シャルロッテの許婚・アルベルト青年VS主人公の口角泡を飛ばす議論が出てきます。

アルベルト青年の「人間はどういうつもりで自殺なんかするのか、信じられない」に対して、ウェルテルが反論します。アルベルトは自殺は現実逃避の弱さ以外の何物でもない、思慮分別を失った人間は酔っ払いや狂人と同じだ、と主張します。

これに対してウェルテルは、行為の原因を考えることなく自殺を罪とするのは無理だ、情熱と狂気は紙一重のものだ、そして肉体的苦痛が限界を振り切って死ぬことがあり得る(例えば熱病)のと同様、精神的苦痛が耐えうる限界を振り切ったのが自殺という結果である、と反論。ウェルテルはこう断言します。

「人間の心が、入り乱れ矛盾し合ういろいろの迷宮からどうしても逃げ出せなくなると、人間は死なざるをえないのだ。」


今日まで何度となく繰り返されている議論です。そして、結局二人の議論は物別れに終わります。当然ですが、あまりにも根本的に意見の向いている方向が違う場合、これは「信じる神の違い」となって議論になりません。


楽あれば苦あり、と言えど


どちらが正しいかは論じられない、そこで二人の意見で何が違うのかを見ていきます。

まず、アルベルトは自殺を「人生の苦難からの逃げでしかない」と言い、またウェルテルは「楽しかるべき人生を棒に振るだけの決断」と言います。実は理性的で楽天的に見えるアルベルトが人生を苦難と捉え、直情的で悲観的なウェルテルは(本来的には)快楽と捉えている。人生観が意見に反映されています。自殺という最終手段と、楽天的な世界観が表裏一体になっているのが分かります。

夢は持て、しかしそこにドライブがかかりすぎると破滅するというのが、この小説で浮き彫りにされている人間の微妙さです。確かに物語は、許婚のいる女性に熱狂的になった(ドライブがかかりすぎた)ウェルテルの悲劇で終わっています。

もっとも、ウェルテルがハナから人生を楽天的に考えているかというと、そうではありません。例えば冒頭に引用した、現世と言う牢獄を去る、という言葉は、実は主人公ウェルテルがシャルロッテ嬢に会う前の日記。実はここからすでに主人公が「自殺」について考察しています。こういう伏線がゲーテのすごいところ。(と、解説に書いてありました。スミマセン。)


報道から教育へ


何より、決定的に違うのは、自殺をアルベルトが「自分の意思で行うもの」と捉え、ウェルテルは「環境に追い込まれるもの」と捉えていること。この二つが、「信じる神の違い」として「対等」な意見であることは、注目する価値があると思います。


最近の報道を見ていて思うのは、これこれのいじめが自殺に追い込んだのではないかと見られている的な報道、外的原因の探求に目がいくばかりだなということです(もっともニュースで内的原因を止める話は無理でしょうけど)。校長の記者会見だの、学校叩き、それも大変結構です。アンケートをやりました、いじめ撲滅につとめます、きちんと話し合います、それも大事なことだけど。しかしそれは問題の片面、「環境」でしかない。「本人の意思」をどうしていくのか。


環境の改善が、「『生きる』力を教育する」という大プロジェクトを後回しにする言い訳になってはいけないと思うのです。もちろん、辛くても生きるんだよ、と言ったって始まらない。ここで大人は何を示せるのか。いやむしろ、大人は、生きる力を見出しているのだろうか?



時代遅れの物語、されど


やがて屋敷は荒れ果てていきました。
まま母と娘たちが贅沢をしすぎたからです。
シンデレラは虐げられ、
屋敷中の仕事を押しつけられました。
それでもシンデレラは優しさを忘れません。
毎朝希望を新たにするのです。
“いつか幸せになれる”と。
 ― ディズニー映画「シンデレラ」、冒頭より


シンデレラは、幸せになりました。

あまりにも有名で、古典的、典型的なストーリー。でも、この映画、本当に王子様と結ばれたことが一番大事なのでしょうか。王子様との結婚も、まま母の意地悪も、描き方としてはむしろドライ。

それより一際輝いているのは、シンデレラとネズミを初めとする動物たちとの友情、厚い信頼関係のなせる業。そしてそのもとになっている、彼女の希望、そして優しさ、誠実さ、正直さ。結果ではなく、プロセスなのです。

だから、お嫁にいければ幸せだなんて時代遅れもはなはだしい、などという批判はこの作品についてはお門違いだと思います。おとぎ話の中ばかりに世界を夢見てる自分もバカみたいですけど、でもこの作品はやっぱり、いい。大人にも子供にも薦めたい、大好きな映画です。




そしてもう一つ。

カボチャの馬車も、雪のようなドレスも、妖精の魔法の「夢」でしかなかった。だから12時の鐘の音と共に、幻と消えた。でも、ガラスの靴だけ、なぜか手元に残るんですよね。夢がなければ、靴もなかった。夢が見れれば、靴が残るかもしれないのです。大人がしてやれるのは、そんな魔法のようなものじゃないのかな。



3連続の自殺シリーズも、ここでおしまい。
読んで下さった方、ありがとうございました。
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【2006/11/11 01:06】 読書 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
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