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時間のキャンバス~ミヒャエル・エンデの「モモ」
時計というのはね、人間ひとりひとりの胸の中にあるものを、きまめて不完全ながらもまねて象(かたど)ったものなのだ。光を見るためには目があり、音を聞くためには耳があるのとおなじに、人間には時間を感じとるために心というものがある。そして、もしその心が時間を感じとらないようなときには、その時間はないもおなじだ。
(― ミヒャエル・エンデ作、大島かおり訳「モモ」より、強調:引用者)


なんてすごい「童話」なんだろう。「児童文学」というジャンルで、これだけのことを語れる本が他にあるでしょうか。現代を痛烈に批判する一方、人間の本当に大切(と思われる)なものを、グイグイと見せ付けられる思いがします。

時間を感じる心。今日の僕はと言えば、午前中は就活に出て、ファーストキッチンで本を片手に昼食をかきこみ、語学を2時間ほど勉強して、本郷に行って院生室で用事を済ませ、バイトに行って帰ってきてブログを更新しています。だから時計は何度となく見ています。でも、時刻を確認することと時間を感じることには雲泥の差があるのです。


この作品は、あるのんびりした街に住むホームレスの少女・モモが、人々から時間を盗もうとする「灰色の男たち」と対決するお話です。読んだことがある人も多いとは思いますが、一応簡単に。


簡単なあらすじと、哀れなフージー


灰色の男たちは、市民一人ひとりを訪問します。その人が、「立派になりたい」と思っていることを知っている彼らは、彼らがいかに時間を無駄にしているかを説いていきます。

時間を節約して「時間貯蓄銀行」に預けること、そうすれば、利子がついて将来倍になって返ってくるのだ、と。では、時間を預ける、とはどうすればよいのか。例えば1日に2時間節約したとします。つまり1日でやることを22時間で行う。そうすると気付かない間にふっとその2時間が消えている、というのです。

床屋のフージー氏のところに来た灰色の男たちは、フージー氏がいかに「時間を無駄にしているか」を数字で示します。そして次々と具体策を示していく。

1時間かけていたお客は15分で髪を切る。余計なおしゃべりはしない。インコはペット屋に売り、病気の母親は老人ホームへ、毎日会っていた恋人とは2週に1度しか会わない…。

でも、灰色の紳士は、彼の記憶からさえ姿を消してしまうので、フージー氏はその変化さえ自分で感じられないのです。それを本文ではこのように表現しています。

毎日毎日がますますはやくすぎてゆくのに気がついて愕然とすることがあっても、そうするとますます死にものぐるいで時間を倹約するようになるだけでした。


どれほど忙しくても、充実を味わえない人。ぎくりとしませんか?


充実の末路


そして、エンデの描写の勢いはとどまるところを知りません。引用が多くなって恐縮ですが、「これが童話かよ」と突っ込みたくなるクオリティに驚かされること請け合いです。いや、そんな客観的に読む余裕は僕にはありませんでした。身につまされるのです。

たしかに時間貯蓄家たちは、あの円形劇場あとの近くに住む人たちより、いい服装はしていました。お金もよけいにかせぎましたし、使うのもよけいです。けれど彼らは、ふきげんな、くたびれた、おこりっぽい顔をして、とげとげしい目つきでした。


時間をケチケチすることで、ほんとうはぜんぜんべつのなにかをケチケチしているということには、だれひとり気がついていないようでした。じぶんたちの生活が日ごとにまずしくなり、日ごとに画一的になり、日ごとに冷たくなっていることを、だれひとり認めようとはしませんでした。


彼らは余暇の時間でさえ、すこしのむだもなく使わなくてはと考えました。ですからその時間のうちにできるだけたくさんの娯楽をつめこもうと、もうやたらとせわしなく遊ぶのです。



灰色の現代史


この物語に出てくる何人かの人は自分たちの変化に気付いていて、「時代がすっかり変わってしまった」ことを嘆きます。灰色の男たちによって時代が変えられたのなら、変わったポイントが明らかだから。

だけど、この本が皮肉る現代はそうではない。あらゆる事務処理がスムーズになり、手間が省ける時代に、なぜどんどん人手が必要になるのか。一日中家を空け、家と会社を往復するような生活を「当然」と言う人がどれほど多いか。潤沢な時代に、社会的なわずかな付加価値のために、その争いに躍起になったために、現代人はどれほど時間を感じる心を失っていくのか。

昔はよかった、などと言いたいのではないし、言える年でもありません。ただ、僕らが「充実」と呼んでいるものは、もしかしたら極めて根源的な問題かもしれないということです。企業戦士の父親を見て育つ、学歴社会を生き残る、教育の段階からの、灰色の現代史の影響なのかもしれません。

自分だって、お金も名声も欲しい。外資金融の説明会に行けば、そこの人たちの目のあまりの深さに驚くはず。きっと彼らは、素晴らしく充実した人生を過ごしているんだろう。彼らのほとばしる知性のオーラに圧倒されます。でも、そこにオーラを感じること自体が、教育された灰色の感覚かもしれない。いや、それでもやっぱり、美しい。うらやましい。どちらがいいかの結論は出せません。灰色呼ばわりが負け惜しみと堕落の一歩である危険は十二分にあります。結局は充実かゆとりかの二項対立ではなく、歴史と個人の問題なのです。


話を戻します。


何の時間を節約しているか


充実している人は、たいがいにおいて、同じ時間に人より多くのことをやっています。でも、彼らがいかに多くのことをやっていても、決定的に持っていないものがある。それは「受け皿」です。

バイトでの雑務を、断らざるを得なかった。
遊ぼうよ、と声をかけられても、断る。
会いたい人と、予定が合わなくてあきらめる。
その他、電話に出られない、眠くなる、ブログが更新できない…。

あらゆる充実は自分のためのもの。充実はタダではない。ちゃんと犠牲を伴っていることを知るべきなのです。人への時間は、ゆとりの中からしか生まれない。ゆとりを削って充実させていくことは、時として大いに必要ですが、人への時間を削る可能性を否定できないことなのです。


灰色の男たちに立ち向かった少女モモ。彼女の特技は「人の話を聞くこと」でした。貧乏で何も持っていない、あるのは時間だけ。そんな「人に分け与える時間」しかない少女が、灰色の男たちと対決する、その構図に、作者・エンデはどんな思いを込めたのか、何となく分かる気がしませんか。




灰色の男たちは、「葉巻をくゆらし、書類カバンを持った紳士」でした。この本は、まだ書類カバンを持たない人、そして持った人にもお勧めの「童話」です。


1ヶ月のインターンを辞退しました。これでよかった、と思いたいです。
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【2007/03/01 02:50】 読書 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
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