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感動を超えて(1)
「○○という作品を読んで泣きました」みたいなコメント、映画でよく見かけますが、僕はあまり好きではありません。というのも、「泣ける映画」を観たいと思わないからです。むしろ安易なものが多い気がしてなりません。


泣ける映画


例えばチャン・イーモウ監督の映画「至福のとき」

お見合いに失敗した男が、盲目の少女を引き取ります。彼女を不憫に思った彼は、少女がマッサージが得意だということで、マッサージの仕事をさせて生きがいを与えようと考えます。少女は一生懸命働きます。彼は彼で自分の友だちを集め、客になってくれ、と頼み込む。少女に渡すお金がなくなり質屋に走り、ついには白紙の紙幣を…、という物語。
青い空は見えないけれど
輝く星も見えないけれど
私はあなたの心が見えます。

強烈です。泣かない人はいないんじゃないか、というくらいの作品です。




しかし、泣くだけ泣いた後に冷静に思い返して、「作品がすごいからその結果泣いてしまう」というよりは、ふんだんに泣かせる仕掛けが施されているのが分かります。ストーリーも演出も、全力を挙げて「泣かせ」に走る。それは作品の作り方としては極めて分かりやすい安易な部類だと思います。完全な目的あっての芸術。鑑賞者に「?」が残ってしまっては感動させられません。だからいかに「?」を排除するか、一面だけに注目するかで組み立てる、それが(映画に限らず)泣かせる作品の作り方です。

ただ、それで本当に泣かせる作品が出来るわけではありません。やっぱり作り方はうまい。その一面を最大級に引き出せなければ、「泣ける映画」にはならないのです。僕もいろんな映画で泣きますし、泣いた映画でいいなと思ったものは少なくありません。でも、所詮は一面でしかない。

映画の可能性は、泣かせるだけじゃありません。だから「泣ける映画です」などとコメントされて、この映画が表現しているのはその一面なのか、と思ってしまうと逆に残念なくらいです。もっともっと大きな表現を、僕は映画に期待します。


泣けるコメント


泣けるという「コメント」の方に話を戻します。これらが多い理由として考えられるのは、次の2つ。

まず、レビューという文章の体質。これこれという感想を持ちました。これこれだと考えました。と書くより、圧倒的に「泣きました」と書くほうがラク。抽象的な思考より、具体的・肉体的反応の方が文章に起こしやすいのです。特に有名人レビューのような短さが求められる文章では、あらゆるリスク・コスト回避につながります。


2つ目の理由は、人々が極めて強いレベルで「感動」を求めていることです。涙を流したい、そして涙を流せるほど「やさしい」自分でいたい、という、それは言わば「感動する自分」を求めている現象です。
「また泣いちゃったよ」と照れずに語る若者を見ていると、そうやって泣けるような状況に自分がいるということで、何かを確認しているのではないかとも思える。つまり、自分はその他大勢として生きているわけではない、泣けるような特別なできごとを経験しながら生きている、ということだ。

だれもが「泣ける物語」を求めて本を読み、映画を見るようになってきている。「泣かなければ自分が何者かもわからなくなってしまう」という危機感が、世の中全体に広がっているのだろうか。
 ― 香山リカ「若者の法則」(岩波新書)


感動したということを言いたい。その気持ちは自分にもあります。でも、それだけに惹かれて映画を観て、それだけを確認して終わらす観方を僕はしたくない。映画の表現に様々な可能性を期待すると同時に、自分が感動以外の感想を持つことを期待したいのです。



・・・話を音楽に飛ばします。が、それは次回へ。


(註)「至福のとき」は泣ける方面では強くお勧めします。(ホント)
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【2007/03/13 01:46】 映画 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
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