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感動を超えて(2)
すいません、時間が空きました。前記事は、映画は「感動」で止まりやすいですが、それ以上の感想を持てるようになりたいなぁ、という話でした。

さて。


映画で感動した、というのはありますが、音楽で感動する、という人はどのくらいいるのでしょうか。
小説は?
建築は?
絵や彫刻は?
工業製品は?
他にはどんなもので感動しますか?

興味のある対象の方が感動しやすいでしょうが、それだけでしょうか?「(映画で流れた涙の量)÷(映画が好きな人)」と「(絵で流れた涙の量)÷(絵が好きな人)」を比較しても、かなりはっきりと差が出てくるように思います。それは、それぞれの芸術の本質的な違いから来るもの、もしくは、それによって人が感じる「感動」が異なっているように思います。音楽一つとっても、歌詞に自分を重ね合わせる感動と、楽器のみのジャズやクラシックなどの構築美への感動は相容れないものがある気がします。

例えば、映画・小説は「感動メディア」の代表格ですが、どちらも時間芸術、つまり読み手に時間的な意味で追体験させる芸術です。音楽もそうですが、ただし抽象度が圧倒的に高い。構築美の感動は分かりにくく、また歌詞による感動は追体験的というよりは、抽象的な歌詞を自己にひきつけた感動、とでも言いましょうか。

建築は?絵は?彫刻は?・・・このあたりは正直よく分かりません。腐っても建築専攻、建築を見て泣いたことはないわけではありませんが、絵や彫刻は(残念ながら?)皆無です。工業製品などいい例で、某メーカーの携帯電話を見てその美しさに「はぁ~」とため息が漏れ、歴史的大画家の油絵よりも見入ってしまうことも珍しくない、のに、それは「泣ける」類の感動とは程遠いのだから不思議なものです(そして、この例を一つ取ってみても、「泣ける」感動がいかに一面的感情でしかないかが分かります)。


抽象度と教養


今度は、映画のときと同様に話をメディアから受け手側に戻します。「泣ける映画」を観て、「・・アレってどこで泣けばいいの?」ととぼけているヤツは滅多にいません。ところが、音楽ではみんなが等しく「感動する」曲などないし、絵や彫刻に到ってはなおのことそう。人による違いが激しいのです。その背景には、感銘を受けることはあっても泣くことはない、というメディアの特徴もあるでしょうが、もっと踏み込めば、受け手の趣味嗜好や知識教養に大きく依存する芸術である、ということが言えそうです。だから、「泣ける映画」「泣ける小説」はあっても「泣ける音楽」「泣ける絵」はなく、代わりに「音楽で泣いた」「絵で泣いた」となるのです。


「聞いた風な話」という言葉があります。そこそこにいい話ではあるけれど、ありふれている話のことですが、「ありふれている」と分かるにはある一定の教養が必要、それがない人は純粋に「いい話」だと思うはずです。無知ゆえの感動。学歴ある大人は冷たい生き物です。一方で音楽はどうか。聴いて理解するのにある一定の教養や知識、習慣が要求されるようなものは、無知な人は理解に苦しむだけ。逆の現象が起こっています。


無知なる感動と教養による感動。この両端は、芸術の抽象度に直結しています。小説や映画を観るのに使っている感覚は、生活に強く根ざしたもの、・・誰もがうんと小さな形で体験していることが、壮大なドラマとなって提示されたものです。しかし、音楽や絵で使う感覚は、現代においてすでに日常から大きく逸脱しています。抽象の上に抽象を重ねた芸術。20世紀半ばから音楽界を席巻したポピュラー音楽というのは、抽象を追い求めて複雑化しすぎた近代音楽に対して再び日常に根を下ろさせる動き、と考えると、その意味が分かりやすいのではないでしょうか。


教養との鬼ごっこ


もちろんすべての作品が無知向けと教養向けに色分けされるはずもなく、すべての作品が両方の要素を持っていて、バランスがそれぞれ違うと考えるべきでしょう。ただし、革新的な作品は極めて高度な「教養」を要求する。それが社会の常識が追いついてきて、無知向けの要素を獲得していくと、奇作が名作に変わる、そして、社会が獲得した教養と要求した教養にズレが生じていったとき、作品は忘れ去られることになります。


個人と歴史は相似形。人間に関しても同じことが言えます。自分の教養の限界を超えた作品と出会い、嫌悪感を感じる。問題は、そこで要求された教養を感じ取り、自分で培えるか、ということです。そこから教養を培い、作品が要求していたレベルを飲み込んだときの快感は、一度経験すれば忘れられないものとなるはず。一方で、教養を培った結果、作品の要求した教養と(質的にであれ量的にであれ)あまりに大きなズレがある、と認識したときそれは食わず嫌いや「一目嫌い」の状態と比較して、はるかにハッキリした感情を持つはず。こうした教養と教養の距離感を測ること、これだって負けず劣らず作品の楽しみ方です。


泣いた、笑った、感動した、という肉体的反応も大いに結構。でも、「面白い」という間の抜けたような日本語の持つ意味はもっともっと大きく、作品を「面白い」という言葉の持つすべての意味で体験できるようになりたいと思うのです。



・・・最後まで読んでくださって本当に有難うございます。

ちょっとだけオマケ。↓

(ドラゴンボール18巻より、クリックすると大きくなります)






ここで、界王様は、こんなギャグで「無知ゆえの感動」を体験しています。

そして、「界王様はこんなつまらないギャグで笑うのか~」と子供は笑う。

でも、大人からすれば子供をそういう意図で笑わせているのが見え見えだから、ハッキリ言って「くだらない」と思う。つまり、子供の笑いも「無知ゆえの感動」で、大人はすでに身に付けた教養から、ここにズレを感じるのです。その感覚は、話の「意味が分からない」という感覚と全く違うのは明らかです。


このマンガが無知向けの要素を多く持ちましたが、(少なくともこのワンカットについては)教養向けの要素はなかった。これを「だからマンガはくだらない!」と見ても悪いとは言いませんが、「これで童話(子供向きの作品)は成功するんだ」と見ることもできるはず。

そう考えると宮沢賢治の功績が見えてきます。無知向けで十分なはずの童話に、その機能を落とすことなく、これでもかと教養向けの要素を複合させたものを生み出した代表的作家でしょう。



でも、大人が感動できるからといって、それがドラゴンボールに対して「優れている」かというのはまた別問題です。
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【2007/03/17 20:46】 音楽 | トラックバック(0) | コメント(2) | page top↑
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コメント
(1)(2)共に、なかなか興味深い考察で面白かったです。
特に、「泣ける映画」に関する考察は、すごく共感します。映画の宣伝コピーで「泣いて笑って」的なものが多いのが、すごく映画の幅を狭くしている気がします。

---------------------------------------

また、音楽や絵に関する感動についてのくだりは、ちょっと違うことを考えました。

感動が自分の内側にあるか外側にあるか、という点に注目してみました。

映画でも音楽でも何でもいいのですが、人が何かに感動するのは、作品に対して、ある種の追体験をすることで、自分の内側に持ってきた時だと思うのです。

音楽に感動できるかというのは、そういう観点からすると、作品を自分の内側に取り込む「すべ」があるか=教養があるか、という事なのかな、と思いました。

でも、追体験だけでは言い切れない感動というのもあって、それが「分かる」という感覚だと思うのですよ。
それは、アルキメデスが裸で町中走っちゃう感覚。
その感覚を大切にしたいですね。

って、徒然と長々書いちゃってすみません。。。(笑
【2007/03/17 23:12】 URL | カルビ #-[ 編集] | page top↑
わぉ、読んでくれてしかもコメントまでありがとう~!
てか一体何人読んだんだろうw

>感動が自分の内側にあるか外側にあるか
>アルキメデスが裸で町中走っちゃう感覚
なるほど!と思いました。確かに僕の解釈だと、音楽や絵まで知識で科学的に「分かる」ことが感動、みたいに片寄ってるけど、もっと人間的なものなのかもですね。

例えば音楽に対して、
楽譜を見て「ここがこうなってるからああ聞こえるんだ!」という「分かる」体験と、
「なんていい曲なんだろう!」っていう「追体験」とが両方ある、
ということが(音楽でも映画でも)あると思うんだけど、
じゃあそれが全く違う仕組みなのか、
非常に近いものなのか、ちょっと変わってくるのかな。

で、どちらにせよ、その2つの感覚どちらも大切なんだよね。2つ使えたほうが面白いし笑
【2007/03/18 00:19】 URL | Toku #m3xkrDMA[ 編集] | page top↑
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