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牛歩読解
旅行中、旅行ガイド以外に何一つ読まなかった反動か、帰ってから本の衝動買いがひどいです。すでに15冊以上買っていますが(1日1冊近いペース)、あいにく僕はひどい遅読。帰国後の消化はわずかに3冊、1週間に1冊でも自分としてはそこそこなので、机の積ン読がとにかくジャマです。


いかにもな感じですが、周りにやたら速読派が多いのはここが東大なのと無関係ではない気がします。貸した本が2日で戻ってきたり、レビューがバンバン更新されたり、研究の参考文献リストを見てると、何か悔しい。速読の甘言を鵜呑みにすれば、「理解内容はほとんど変わらない」らしいので、読めば読むほど時間を相対的に損している気分。それでも速読を試せば3日と持たない自分の向学心には、まさに呆れてモノが言えない…って、この表現を使う人に限ってモノを言いまくってる傾向があるからこの表現は嫌いだけど。


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速読と遅読が同じ理解度なら、これで決定的に差がつくのが受験国語でしょう。なにぶん、あれは本文を読むのも時間に含まれているどころか、読むことが時間配分の大黒柱。学校教育は何かと本文の理解に時間をかけるけど、受験を目指すならスピードは絶対必要です。より早く読み、より早く解く、ということを国語の時間にどうしてやらないんだろう?


学校教育として踏み込みにくいのは分からないでもないけど、塾や私学では先生の裁量でドンドン取り入れられていいような気がするし、何も受験テクニックだけの話をしているのではなく、冷静に検討すれば子供の将来のために有意義と判断する人はいるはず。先生がノウハウを持ち合わせていないのかな?


数学にしろ、物理にしろ、先生が例題を与えて生徒が解く時間は必ずある。そして先生が打ち切る。これが時間の「目安」で、理系科目ではそういうトレーニングは日常的に行われている。だけど、国語はなぜか、何かと「宿題」になる。算数の授業に計算トレーニングを課す要領で、読解(例えば速読)のトレーニングは何かしら取り込めないのかなぁ?算数の計算に対するのは国語では漢字だ、という古典的発想は、あまりに安直な気がする。



国語の先生は魅力的な先生が多いと思うけど(少女が恋する先生は間違っても数学教師ではない。イメージだけど)、授業は先生任せの哲学的思索の場になり、それはそれでいいけどトレーニング要素を「全く考えないのが当たり前」になっているんじゃマズかろう。少なくとも自身が受けた国語の授業にはそう思う。まぁ一つ前の時代の話だけど。


代数と幾何で苦手があれば点数にハッキリ出るし、小問で方程式と関数の小計を見ればどこでつまづいてるのかも分かって対策も立てやすい。でも、小説と説明文で点数に違いが出ても何のことだかは正直よく分からないし、国語は常に読む力と書く力が混在して測られているからなおのこと。テストをやって、その反省や弱点克服の方法を、今の先生は示せているのか。



速読など新しいツールが脚光を浴び、小説も論説もどんどん新しくなり、社会の激変に晒される科目・国語。教えられたことをそのまま教える、コピーのコピー方式ではどうしても品質は劣化しそうです。現役の先生はどう工夫しているのかな?
(ここまで読んだ現役さんいますよね?(笑))








あー、うらやましいなー。てか、僕の場合は書くヒマあったら読めよってとこですね。すみません。


で、調べてたらこんなの見つけました。
参考:学習指導レポート、習熟度別指導の学力について(国語)考える②
面白いですよー。
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【2007/07/17 04:43】 読書 | トラックバック(0) | コメント(5) | page top↑
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コメント
私は速いかどうかは分からないけど、読み始めたらかなり没頭するタイプ。大の仮想世界好きw
学校の国語は、“この関係代名詞は何を指しているか?”や“抽象的な小説の意味を考える(ex.安部公房、ボルヘス)”が中心でつまらなかった。
関係代名詞は簡単すぎるし、抽象的な小説は個人的に頭の中で味わえばいいと思ったから。
でも、浪人時代に論説文を解こうとしたら、読めない!今まではファンタジーな雰囲気を味わっていたので、複雑な論説(ex.小林秀雄)の意図が汲み取れない。
それで、『国語の勉強(とくに論説文!)大事だー』って思うようになった。そしたら教科としての国語も楽しくなっちゃった♪
【2007/07/17 12:18】 URL | ごきねこ #RAa2TALo[ 編集] | page top↑
「本を読んだ」というのは、
なにをもって行われるのか?

という問いにたいして、
「内容に対してある程度の理解を得ること」
ということが一般的だし、おそらく国語能力テストでも問われているのだろうと思います。

けど、「本を読むこと」の定義は、「理解すること」ただ一つではない気もします。

たとえば、
■本の内容を3分間で要約できるようになること
■さらっと読書レビューを書けるくらいになること
■本の内容に対して、論文一冊書くくらいになること

これらは、それぞれまったく「本を読むこと」の質が異なるように思います。

僕は、
■論文を書いていて参考文献を引くとき、「あの本の?章に書いてあるはず」くらいに内容を暗記していること
が「本を読むこと」だと思っているので、
読書速度は世間一般と比べて超遅いです。しかも3回は繰り返し読まないと覚えられない。。。


現在の学校教育の国語は、「本を読むこと」の定義・価値を、
教師個人が勝手に決めてしまっているのかもしれない、と思いました。

だから、「国語のテストにおける『読み』の力をつける」「内容を当たり障りなく要約して『書く』力」とかいったものは
フツーの国語教師は教えていない。

「国語ができる」ようになることの明確な目標を定めれば、教育方針も立ちやすいと思います。
けど、国語能力ってあまりに幅があるから、目標を具体的にズバッと決めることは難しい。

日本のビジネス界には、英語教師はいるけど日本語母国語話者のための国語教師はほとんどいない。
ニーズはあるはずなのに。
これには、根本的に母国語を教えるということが難しいことが現れている気がします。

結局は、国語は教育できない。独学が一番。
なのかもです。
(テストで点をとる国語能力は、別に存在してるだろうけど:p)
【2007/07/17 13:49】 URL | まさゆき #-[ 編集] | page top↑
>僕の場合は書くヒマあったら読めよってとこですね。
Tokuさんはアウトプット(書く、説明する)能力高くていいじゃないか。と、読むのは早くても説明苦手(相対的に)な俺は思うよ?

>速読と遅読
小学校でやる追い読み(先生に続いて音読)は速読力(というか瞬間視能力)を落とすけど、普通に喋る能力開発にはかなり効果があるらしいし。
義務教育は基本的に平均的な能力の人を対象にせざるを得ないだろうから、小さい頃から自然に勉強できた人にとっての「こうしたほうが」ってのを優先は出来ないんだろうなと思います(というか当時思ってました)。

>学校教育
正直学校教育での勉強に期待するほうが間違っている気がします。
というのも自分で勉強した方が早い状況の方が多かったからなのですが。
まあ学校行かずに自分で勉強したとも思えませんが(科目によるけど)。

>少女が恋する先生は間違っても数学教師ではない。イメージだけど
川原泉の「たじろぎの因数分解」って漫画では数学教師だったなぁと思った。(一応少女漫画だけど)
【2007/07/17 23:10】 URL | Satie #Zdzt0yFo[ 編集] | page top↑
文章との関わり方というのはいろいろあるんだろうけど、トレーニング要素で言ったら英語圏の授業が強そうなイメージがあります。

高校の英語の授業ではあちらの教材を使って速読の練習をさせられたし、塾の英語の授業では長文の論理構造や読み方をシステマティックに教えてもらいました。アメリカの(おそらく自国向けの)英作文の教科書も、表層の語彙に流れるのでなく目的と論理の骨格をしっかり探り当ててる印象だったし…。
それ以来、なぜ日本の国語教育はそれに値する構造やノウハウを持ち合わせないのだろうかと不思議に思っていました。

まあ、私の周りだけの事情かもしれないのであまり一般化はできないんでしょうけど、少なくとも英語圏のほうが言葉の道具としての使い方をはっきり意識して教えている気がします(さすがプラグマティズムの国。他の国ではどうなんでしょうねー)。
【2007/07/17 23:47】 URL | mk #zYOP5LrY[ 編集] | page top↑
ビックリしました~!ありがとうございます~!!!こんないいコメントこんなにもらえて恐縮です。全員の考えをきちんと咀嚼しているか心許ないのですが、「分かってねぇなぁ」と思ったら、こいつやっぱり読む力がないなと僕を笑うのではなく、教育のせいにして下さい(笑。


>ごきねこ
代名詞云々は確かに超基本だよね。でもそこから抜け出た論説文の意図を汲み取るパズルみたいな国語は、僕も面白くなった。だけど、その同じ過程で得られる力は、まだまだのりしろが大きい気がするんだよね。何をもっていいとするかは別にして、もっといい教育があるんじゃないか、と思っちゃうんだよなぁ。欲張り?w

>まさゆき
気合い入ったコメントありがとう!これだけで一つの記事になりそうで、このブログに乗っかってるのが申し訳ない感じがします。そして、いつもながらまさゆきのプレゼンのうまさに脱帽。論理的だし分かりやすいし、箇条書きとか改行とかを説明のツールとして(単に見やすくするためじゃなく)使える人はホントすごいと思う。。。言われてみて、確かに僕も、遅いながら記憶に残らない読み方はしてなさそうな気がするわ。

明確な目標さえ決められればいい、でもそれを決めるのが難しい、とても納得。でも、「数学が出来る」というのを、確率が得意、方程式が得意、図形が得意、パズルが得意、と分けていくように、国語の目標もそうやって細分化していくことはできないのかな。漢字、ことわざ、慣用句、文法、文学史、は独立した。でも「読解」という一番大きなところがそのまま取り残されてるんだよね。そこを切り分けていくようにすれば、国語力という巨像の輪郭は掴めなくてもトータルで生徒の資産になる気がします。

僕も独学が一番だと思うけど、それは最終的な話。独学に至るまでに、もっと生徒が力を引き出せるようにする余地が、国語という科目では特に残されてるんじゃないかと思います。


>Satieさん
恐縮です。ありがとうございます。でも僕自身の能力については、そろそろインプットに戻さないと危険な気がしてなりませんf^_^;。

「義務教育は~」の節、何かと「先生」は忘れがちですが、大いに賛成です。

ここでは、たとえば「追い読み100・黙読0」を、「追い読み90・黙読10」にしない理由が、先生側のノウハウ不足とか、何となく自分の足あとをなぞっていたとかだったらマズイのでは、ということで、どちらも必要なのだったらどちらのノウハウも蓄積しないと、ということを言いたかったんです。でも、こういったことはご指摘の通り学校にはなかなか期待できない面がある(←控え目w)ので、例えば塾や私学で出来るのでは、と思いました。取り組もうとしてらっしゃる先生方は少なからずいると思うので、試行錯誤の上でシステムが出来つつあるときに、この国の教育にそれに敏感に反応できる土壌があればいいなと思う次第です。

川原泉の「たじろぎの因数分解」・・・。
その漫画、今度読んでみたいです(笑。読んでませんが、このイメージを逆手に取ってドラマにしてる面があるのではないか、と予想しました。ついでに書いておくと、少年が恋する少女が窓辺で読んでいる小説は、ヨーロピアンな文学であって、間違っても自作パソコンの組み立て方講座ではないと思いますw。


>mk
高校の授業であちらの教材を使って速読って…、さすがプラグマティズムの学校(笑。他の某進学校では、高校でも先生が一文読んで一文訳して、生徒は黙ってメモを取って、全国校外模試では数学に対して英語が偏差値マイナス20という事実が平然とまかり通ってました。中学受験に英語はないんだから生徒の資質のせいにできないってのに…。

字面ではきちんと想像できないけれど、そういう教育を受けて、しかもそこに満足して成果を挙げるような人は、多分一般レベルの教育現場から声を発するようには(あまり)ならないんだろうなぁ、と思いました。確かに5歳児にカントを読ませるような無闇な一般化は出来ないことは承知だけど、だからといってそういう教育の道が閉ざされるのはうんと残念だし、もしかしたらそこに問題というか構造そのものがあるのかも。

【2007/07/18 01:30】 URL | Toku #m3xkrDMA[ 編集] | page top↑
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