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青い鳥を求めて
最初にお断りしておきますが、何日にも分けて書いている長さです。全体は「レビュー3本+日記」の構成で、レビューで扱うのは、
  • 「君死にたまふことなかれ」(与謝野晶子)
  • 「山月記」(中島敦)
  • 「クリスマス・キャロル」(ディケンズ)
です。

君死にたまふことなかれ


軍国主義のさなかに詠われた、与謝野晶子の反戦歌。その冒頭は、歴史の教科書に必ず載っています。
あゝおとうとよ、君を泣く
君死にたまふことなかれ
末に生まれし君なれば
親のなさけはまさりしも
親は刃をにぎらせて
人を殺せとをしへしや
人を殺して死ねよとて
二十四までをそだてしや
(後略)

まぁ簡単に補足すると、「人を殺せとをしへしや」の「や」は反語を表しているので、「人を殺せと教えたのだろうか、いや、そうではない」というニュアンスです。同じく、「二十四までをそだてしや」は、「人を殺すことが人生だとして、親はお前を24歳まで育てたのだろうか、いや違う!」となります。


じゃあ何が人生か、何をして死ねよと親は教えたのか、ということはここでは語られず、以下は全5連に渡る反戦歌が続きます。(全文、訳、解説はこちらが詳しいです。)
あゝおとうとよ、君を泣く
君死にたまふことなかれ
末に生まれし君なれば
親のなさけはまさりしも
親は刃をにぎらせて
人を殺せとをしへしや
人を殺して死ねよとて
二十四までをそだてしや

堺の街のあきびとの
旧家をほこるあるじにて
親の名を継ぐ君なれば
君死にたまふことなかれ
旅順の城はほろぶとも
ほろびずとても何事ぞ
君は知らじな、あきびとの
家のおきてに無かりけり

君死にたまふことなかれ
すめらみことは戦ひに
おほみずから出でまさね
かたみに人の血を流し
獣の道で死ねよとは
死ぬるを人のほまれとは
おほみこころのふかければ
もとよりいかで思されむ

あゝおとうとよ戦ひに
君死にたまふことなかれ
すぎにし秋を父ぎみに
おくれたまへる母ぎみは
なげきの中にいたましく
わが子を召され、家を守り
安しときける大御代も
母のしら髪はまさりぬる

暖簾のかげに伏して泣く
あえかにわかき新妻を
君わするるや、思へるや
十月も添はで 別れたる
少女ごころを思ひみよ
この世ひとりの君ならで
ああまた誰をたのむべき
君死にたまふことなかれ

第2連で、商人の家の誇りを語り、
第3連で、天皇はお前の死を望むものかと強く出て、
第4連で、彼への思慕で苦しむ母の嘆きを代弁し、
第5連で、結婚1年に満たない若妻に想いを訴える。。


これだけいろいろな方向から弟を見ていながら、「弟をこんなに愛してる」という晶子本人の想いそのものが書かれていません。だけど、そんなものはなくてもいい。全体を通じて弟への愛が溢れています。
あゝおとうとよ、君を泣く
君死にたまふことなかれ
この強烈な語り出しで始まって、そして最後でも訴える「君死にたまふことなかれ」。


晶子本人からすれば一番遠いかもしれない存在「新妻」で詩を結んでいるところも、強くて悲しいやさしさを感じさせます。


家、君主、母、そして新しい家庭。


第1連の反語の裏で間接的に投げかけられた、「親は何ををしへた」のか、という問いへの答えらしきものがぱらぱらと散りばめられ、それが晶子の強い声でまとめられています。


いい詩ですよね。僕は好きです。





「山月記」


中島敦の「山月記」を読みました。最近は高校の教科書でも取り上げられているようですが、僕は読んだのは初めて。わずか十数ページなのに、すごく含蓄のある小説です。


念のためあらすじを書いておくと、李徴は仕事をやめて、昔からの夢であった詩作に専念、しかし一向に名は上がらず生活は苦しくなるばかり。すべてを捨てて山中で発狂し、気づけば体は虎になっている。ある日、李徴の友人がそこを通りがかると、茂みから李徴の声が聞こえる。曰く、虎になった自分は一日に数時間しか人間の心を持てないとのこと。こうなった理由は、自分の高慢さが人にへつらうのを妨げながら、一方でその臆病さによって努力を避けてきたこと、そして妻子を残してきたことではないかと告白する。そして、李徴は最後の望みとして、人生を賭けた、自らが書き残した詩を発表してくれること、そして妻子の面倒を見てくれることを頼み、そして別れを告げる…。


こんな感じ。まぁ読んだことある人は多いですよね。


「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」という言葉が出てきます。自らの才能を人に誇ろうと優越感を抱きながらも、才能のなさが暴露されるのを恐れて努力できないという劣等感に悩まされる。その劣等感を隠すために人との交わりを避け、優越的な態度をとり、また人間関係に苦しみを覚える…。


なんとも現実的な話。身につまされる思いがします。そして、こうしているうちに、彼は虎になってしまう。



ここからの描写がすごい。日本語がうまいので、そのまま引用します。
自分は直ぐに死を想うた。しかし、その時、眼の前を一匹の兎が駈け過ぎるのを見た途端に、自分の中の人間は忽ち姿を消した。再び自分の中の人間が目を覚ました時、自分の口は兎の血に塗(まみ)れ、あたりには兎の毛が散らばっていた。これが虎としての最初の経験であった。それ以来今までにどんな所行をし続けて来たか、それは到底語るに忍びない。ただ、一日の中に必ず数時間は、人間の心が還って来る。そういう時には、曾ての日と同じく、人語も操れれば、複雑な思考にも堪え得るし、経書の章句を誦んずることも出来る。その人間の心で、虎としての己の残虐な行のあとを見、己の運命をふりかえる時が、最も情なく、恐しく、憤ろしい。しかし、その、人間にかえる数時間も、日を経るに従って次第に短くなって行く。今までは、どうして虎などになったかと怪しんでいたのに、この間ひょいと気が付いて見たら、己はどうして以前、人間だったのかと考えていた。

ただ、とにかく共感しました。どんどん人間と話さなくなっていく自分。いつの間にか自らの「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」によって自分が見えなくなり、歪んでいて、そしてふと我に返ったとき、自らの牙に血を見る自分。どんどん分からなくなる。人にどれほどの傷を負わせたか、もう一日ほんの数分になった「人間の頭」で、考えても考えても分からない。


「就職活動でたくさんのものを失った」という文章をかつて見ました。納得。歪んだ常識が、刺激に反応して、さらに歪められる。自分が人間の心を失ったということが、「後から」分かる。そしてぞっとする。経験ある人もいるんじゃないでしょうか。


虎になる必然性は、この作品にはない。すべては李徴の推測です。彼に必要だったのは、詩作への没頭か、仕事への邁進か、妻子への愛か、あるいは??答えが出るなら、歪んだ人間などこの世にいない。


ちなみに、ちょっと検索をかけると、国語の授業ノートみたいなのが沢山出てきて面白いです(笑)。興味ある人はどうぞ。





「クリスマス・キャロル」


くどいですが、さらにもう1つレビュー。今日読み終わりました。「大いなる遺産」などで有名なイギリスの作家・ディケンズの童話「クリスマス・キャロル」です。


主人公は、誰にでも嫌われる守銭奴スクルージ。クリスマスだといってもアタマの中は仕事と金だけ。書記をどなりつけ、寄付を断る。そんな彼のもとに3人の幽霊が訪れ、過去、現在、未来を見せていく。1人目の幽霊が見せたのは、過去。スクルージがかつて見た、美しいクリスマスの光景、そして恋の語らい。少しずつ、運命に変調をきたしていった頃。2人目の幽霊が見せたのは、現在。幸せなクリスマスの家庭、嫌われ者のスクルージ。だけど、血も涙もなくなったような彼にも、その幸福を願う人がいる。3人目の幽霊が見せたのは、未来。誰もが、とある死んだ男の悪口を言う。誰からも尊敬されず、墓もボロボロ。そして、その世界に、スクルージがいない。まさか・・・。そして現実に戻って、彼は子供にやさしくなり、書記に心を配り、家族とクリスマスを祝い、善なる人間になって幸せになった、というハッピーエンドです。




読んでて、居心地の悪さを僕は感じ続けていました。「めでたい日」。それはそれでいいのだけれど、全員がそれを享受できているわけではない。
それでもその全員が、それぞれにクリスマスの歌を口ずさんだり、クリスマスのことを思ったり、いっしょにいる仲間に昔のクリスマスの思い出のことを、小声でささやいたりしていました。そうした思い出話には、故郷への思いもひそんでいました。船の上には、起きている者もいれば眠っている者もおり、善人もいれば悪人もおりましたが、そのだれもが、一年のうちのこの日だけは、ふだんよりも思いやりのある言葉をかけあい、いくらかでもお祭り気分を味わい、遠くにいる親しい人たちのことを思い出したり、むこうでも自分のことをなつかしく思ってくれているだろうなと考えたりしているのでした。

典型的な美しきクリスマスの描写とやらでしょうけど、中には恵まれない人だって絶対にいる。中には、普段から善を心がけ(スクルージとは違う!)、それでも、家々でのパーティーを、そこから流れる七面鳥の香りを、笑い声を、子供たちの浮き立つ足取りを、一人ぼっちで羨ましく感じる人がいる。彼らに何が出来るのか。非があるなら、直すのはたやすい。


スクルージには、甥の家族がいました。だから改心したとき、彼らの元に飛び込めた。だけど、そんな家族がいない人だっている。改心したって彼らの元に飛び込めない人もいる。飛び込んで、歓迎されない人もいる。その人たちは、「悪人」だろうか。


非がない人の不幸は、果たして救われるのか。
不幸な人間には、みな、スクルージのような非があるのだろうか。



報われない人々。
因果応報では語れない人々。


「親にをしへられ」ていなかろう戦争に向かったのは、軍部の命令だったはず。詩作に励み、いかにも人間らしい苦悩を抱えた李徴が虎になったのは、彼のせいなのでしょうか。


童話だから仕方がないのかもしれないけれど、「クリスマス・キャロル」には西洋のマイノリティーを抑圧する歴史の一端が見える気がしました。そして、その片棒を担いだような文章が、12歳から靴墨工場で働いた庶民派の作家・ディケンズの筆から見えたところに、僕は嫌悪を感じました。

(註:ちなみにこの作品は19世紀半ばですが、「不条理」概念が主にカミュやサルトルら20世紀前半の人によって描かれだしたことから、作品に罪を着せる気はありません。そういう時代の話なんだな、と。)





そして、最後に自分のこと。


============


自分の欠点なんて、枚挙に暇がない。怠惰で、愚かで、傲慢で、空気の読めない、非常識な、醜い、ああ。こうした列挙の中でも、自分の本当にイタい部分を避けて書いている、自分の偽り。一日が終わって、鏡の前に来たときに、日記帳を開いたときに、自分の牙についた血に気づいて必死に拭き取る毎日です。時に、誰の血かも分からない。



でも、虎になった李徴に、詩や妻子を任せられる最後の友人がいたように、僕にもまだ大切な人たちがいて、彼らがまだ僕の人間の心をつなぎとめてくれてる感じがします。自分がスクルージのような冷血漢なら、日ごと短くなる、そのわずかな人間の心で、改心していく他はない。だから頑張ろう。だけどもしも、「クリスマス・キャロル」に描かれないような、非のない苦しみを持ったとしたら?


それは考えるだけで恐ろしい。そんなものはないと信じて、非が見える限り頑張るだけ。でも、それでいいのだろうか。





研究テーマに宗教建築を選んだことを、半ば後悔しています。重すぎる。でも、やるしかない。やるなら、今しかない。同期はいなくなりました。
人を殺して死ねよとて
二十四までをそだてしや
学生最後の誕生日は、友人に1人も会わない、静かな一日でした。最近を振り返ってみれば、そんなことはその日に限ったものでもない。虎は、「白く光を失った月を仰いで、二声三声咆哮」するのみ。



24歳になりました。ダメ人間なりに生きます。
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【2007/10/21 03:51】 読書 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
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