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言論の自由と議論
太平洋戦争の最中。子供は天皇を神だと教えられ、天皇や国家を侮辱するような発言はご法度。手紙が検閲されたり、文学はおろか絵画や音楽にも規制がかかり、今日では当たり前とされている「言論の自由」はまるで認められていませんでした。

ところが、じゃあそれが社会を悪い方向に導いたのかというと一概にそうはいえない面もあります。沖縄での悲壮な戦いで知られるひめゆり部隊、天皇万歳と言いながら自爆攻撃を仕掛ける神風特攻隊が、言論の自由が認められる世の中で果たして生まれ得たでしょうか。言論が不自由だったからこそ、日本はこれだけ「持ちこたえる」ことができたのです。(註1)

このように、あるコミュニティで、「言論の不自由」は恐ろしいほど強い力を生み出します。元来、言論の自由とは、反社会的、反組織的な要素を含んでいるのです。今日でも、言論を不自由にすることで組織が円滑に動いていくのも珍しいことではありません。

しかし、それではダメなのです。少なくとも僕は満足しません。


自由は功利で測れない


上のような背景にも関わらず「言論の自由」が、今日では非常に大切だと考えられています。確かに組織運営には非効率かもしれない、でも、それよりも「自由」の方がよほど価値があるのです。少なくとも現代日本においてはそう考えられています。

ただし、これが一コミュニティの議論の場だと時としてこれが見えなくなってしまいます。こういう意見を耳にすることがあるのではないでしょうか。
「そういう意見は非建設的だから言わないほうがいい」
「そういう立場の人はそんな意見を言ってはいけないと思う」
残念ながら僕自身も身に覚えがあります。もちろんこの類の意見は、ある意見に対する反論としては成り立つでしょうし、そういう意見を言うことも、個人レベルではまた自由でしょう。ただ、これが組織として暗黙のコンセンサスになってしまうと、議論は死んでしまいます。そして、そうやって議論を殺したほうが、効率的であることが多々あります。理論的に正しく見えることも多々あります。だから人はますます声をあげにくくなってしまいます。

人数が多くなるとさらに、周囲の白い目が「暗黙のコンセンサス」を助長します。少なくとも意見を言う側へのプレッシャーが強い以上、言論が不自由になる環境が簡単に整ってしまいます。抑圧は正当性と結びついてしまいがちです。だからこそ逆に正当性を感じたときに、それが抑圧ではないかを考えることが重要なのです(註2)。


選曲委員会・選曲総会


僕の所属する合唱団では、選曲を学生の手で行うシステムを取っています。そして残念ながら、それは時に宗教戦争のような様相を呈することもあります。ですがこういう機会だからこそ、自由な議論になることを切に願います。自由はそれを知って初めて価値が生まれます。平和になり天皇が人間になったときあらゆる人々が教養を手にするように、自由な議論を通じて「音楽を知る」実に大切な機会なのです。


註1:戦争賛美のニュアンスは全くありません。
註2:もちろん、自由と責任は表裏の関係にあります。自由だから何を言ってもよい、というのは当然大間違いでしょう。
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【2005/10/24 00:50】 文章 | トラックバック(0) | コメント(5) | page top↑
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コメント
>それは時に宗教戦争のような様相を呈することもあります。
やっぱりTokuさんは文章が上手いなぁと思いました。
【2005/10/24 00:33】 URL | KTP #7nflydWA[ 編集] | page top↑
なるほど…。
勉強になりました。

同時に、
「暗黙のコンセンサス」を「うまく」効率的に働かせられるなら、
効率的であることを重視したい場合にはそれを使ってもいいかなぁと思ってみました。
(「うまく」使うのが難しいと思いますけど。実際どういう使い方が「うまい」使い方なのかわかってないですし……自分には使えなさそうな気もしてきたw)

注:選曲委員会に効率性を求めようとかではないです。
【2005/10/24 02:07】 URL | やすな #hIkcsrIA[ 編集] | page top↑
二人とも、コメントありがとう。

>暗黙のコンセンサスを「うまく」働かせる…
例えば、前提としての知識の共有は「良性コンセンサス」の典型だし、意見のレベルだと「(明らかに)関係ないことを言うな」というのも、かなりの正当性を持った意見で、それも良性だろうね。
だけど、それを越えたレベルではなかなかイメージできないなぁ。非常に短い時間で、さして重要じゃないことを決める場合・・・かな?うーん、やっぱレアな気がする笑。
【2005/10/25 12:48】 URL | T4toku #m3xkrDMA[ 編集] | page top↑
すげー気持ち分かるよ
忙しくて見るの遅れた。
コメントするには遅すぎるかもしれないが、
書きます。
僕も高校時代にそれで悩みました。
ふと気付いた単純な疑問も
それを問う事やその機会を嫌がられる場面に
何度も会って、そのたびごとに
上で言う社会の「暗黙のコンセンサス」に
抑圧されました。
そしてその抑圧に今思えば私は、
学校よりさらなる上位構造の権力によって
学校に対して「暗黙のコンセンサス」
を発動させてその抑圧を拒絶した気がする。
そのことについて大学に入ってからかなり
悩んだよ。自分から生まれる素朴な
疑問や問いのためにそれを行なったのか?
それとも単なる「暗黙のコンセンサス」への
憎悪による不純な行為だったのかと・・・。
今はそのどちらでもありそれでいいじゃないか
と思えるようになったよ。
大学時代に読んでい本で
今のようなことを言及しているのを見つけて
ほっとしたのはニーチェの「悦ばしい知識」
の第一書の13だったり、
バタイユの「エロスの涙」に何度も出てくる
タブーについての考察だったよ。
長いこと書いてすまん。
【2005/10/27 01:37】 URL | Manabu #-[ 編集] | page top↑
すごいの読んでるなぁ。。いつかそういう本が怖くなくなる自分になりたい(笑)。

高校では僕はそんなことを全く感じずに言いたい放題でやってきました。まぁそれでも子供が「性」について暗黙のコンセンサスを感じ取って成長するように、Manabu氏みたいに現実として受け入れる面もある程度は必要なんだろうね。議論の場と社会の場では多少話は違うけど。
【2005/10/28 00:17】 URL | T4toku #m3xkrDMA[ 編集] | page top↑
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