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11月のサーチ・ワードのベスト3
1.ねじの回転
1.シサスク
1.三島由紀夫、金閣寺


となっていました(いずれも6回)。


全部レビュー系ですね。実はこれは一度シサスクがトップに来ていたのを見て、世の中そういう需要があるなら他のも書いてみよう、と思って真面目なレビューをいくつか書いてみた次第です。


で、書いてみて思ったんですけど、レビュー書きは恐ろしく勉強になります。知らない人に物を伝える、そしてなるべくその魅力が分かってもらうように書く、それがどれほど大変なことか。僕にはそういうレビューを書く時間も技術もありませんが、うまいレビューを書ける人の偉大さを垣間見た思いです。


関係ないですが、僕は音楽や美術を「言葉にならない良さがある」というのが好きではありません。それは事実だとは思いますが、あまり安易に用いると言葉で表現する努力を初めから放棄しているように見えるのです。

美術評論家が抜けぬけと「この美しさは何とも言えない」というのを聞くと、「この美しさを何とか言うのがお前の仕事だろ」と思ってしまいます。個人レベルでどう思おうと自由ですが、僕はしかるべき人にはしかるべき言葉を期待しています。あ、でも僕のブログには期待しないでください。


残念ながら、面白い検索ワードは特にありませんでした。敢えて言うなら「もすかう、音源」が3回で6位、「ドイツ、売春」(1回)くらいでしょうか。僕としては、怪しい言葉で怪しいおじさんを惹きつけて真面目な文章でガッカリさせられたらこの上なく嬉しいんですけど、その夢はいまだ達成できてはいないようです。


私信


卒論提出しました。全71ページ。印刷した原稿をまとめるクリップを忘れたのですが、心優しい事務の人が愛の手を差し伸べてくれました。よほど定番なんですね、クリップ忘れ。

あと、ヒマになったかと思いきや、今週金曜に発表練習会、そして来週火曜に本番の発表会があり、卒業設計も考えると以外にヒマがありません。12月は本郷への定期を買わず渋谷への定期を買うという暴挙に出たのですが、ちょっと後悔してます。
【2005/12/05 23:21】 文章 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
長文ラビリンス
かつてネット上のニュースで「ディスプレイで読むのが苦痛にならない文章の長さ」の調査結果がありました。それによると、平均400字くらいで読むのが苦痛と感じ出すようです。そのニュースを読んで以来、僕も文章のマイクロダイエットを試みてるのですが、マイクロどころかデシにもなりません。

400字というと、天声人語(朝日新聞のコラム)が750字程度ですから、あの新聞のアゴヒゲ程度の記事をさらに半分に凝縮することが求められているということになります。天声人語は徹底的に文章を「蒸留」しているため、少なくとも僕は読むのにかなり頭を使います。ネット上の文章であれを読むとなったらさらに苦痛でしょうから、ネットの世界ではそこそこ内容のある文章を、分かりやすく、しかし半分の長さに縮めるという、「締まったグラマーを目指したダイエット」みたいなことをやらなければいけないのです。

と書いた、これだけでもう約400字。さすがに400は少ないような気もします。ただ、書く内容について、読み手は書き手ほど興味を持っていないことを前提に書く必要がある、その点は肝に銘じておくべきでしょう。これは音楽の演奏にも言えることです。
【2005/10/28 00:05】 文章 | トラックバック(0) | コメント(3) | page top↑
言論の自由と議論
太平洋戦争の最中。子供は天皇を神だと教えられ、天皇や国家を侮辱するような発言はご法度。手紙が検閲されたり、文学はおろか絵画や音楽にも規制がかかり、今日では当たり前とされている「言論の自由」はまるで認められていませんでした。

ところが、じゃあそれが社会を悪い方向に導いたのかというと一概にそうはいえない面もあります。沖縄での悲壮な戦いで知られるひめゆり部隊、天皇万歳と言いながら自爆攻撃を仕掛ける神風特攻隊が、言論の自由が認められる世の中で果たして生まれ得たでしょうか。言論が不自由だったからこそ、日本はこれだけ「持ちこたえる」ことができたのです。(註1)

このように、あるコミュニティで、「言論の不自由」は恐ろしいほど強い力を生み出します。元来、言論の自由とは、反社会的、反組織的な要素を含んでいるのです。今日でも、言論を不自由にすることで組織が円滑に動いていくのも珍しいことではありません。

しかし、それではダメなのです。少なくとも僕は満足しません。


自由は功利で測れない


上のような背景にも関わらず「言論の自由」が、今日では非常に大切だと考えられています。確かに組織運営には非効率かもしれない、でも、それよりも「自由」の方がよほど価値があるのです。少なくとも現代日本においてはそう考えられています。

ただし、これが一コミュニティの議論の場だと時としてこれが見えなくなってしまいます。こういう意見を耳にすることがあるのではないでしょうか。
「そういう意見は非建設的だから言わないほうがいい」
「そういう立場の人はそんな意見を言ってはいけないと思う」
残念ながら僕自身も身に覚えがあります。もちろんこの類の意見は、ある意見に対する反論としては成り立つでしょうし、そういう意見を言うことも、個人レベルではまた自由でしょう。ただ、これが組織として暗黙のコンセンサスになってしまうと、議論は死んでしまいます。そして、そうやって議論を殺したほうが、効率的であることが多々あります。理論的に正しく見えることも多々あります。だから人はますます声をあげにくくなってしまいます。

人数が多くなるとさらに、周囲の白い目が「暗黙のコンセンサス」を助長します。少なくとも意見を言う側へのプレッシャーが強い以上、言論が不自由になる環境が簡単に整ってしまいます。抑圧は正当性と結びついてしまいがちです。だからこそ逆に正当性を感じたときに、それが抑圧ではないかを考えることが重要なのです(註2)。


選曲委員会・選曲総会


僕の所属する合唱団では、選曲を学生の手で行うシステムを取っています。そして残念ながら、それは時に宗教戦争のような様相を呈することもあります。ですがこういう機会だからこそ、自由な議論になることを切に願います。自由はそれを知って初めて価値が生まれます。平和になり天皇が人間になったときあらゆる人々が教養を手にするように、自由な議論を通じて「音楽を知る」実に大切な機会なのです。


註1:戦争賛美のニュアンスは全くありません。
註2:もちろん、自由と責任は表裏の関係にあります。自由だから何を言ってもよい、というのは当然大間違いでしょう。
【2005/10/24 00:50】 文章 | トラックバック(0) | コメント(5) | page top↑
「人間・環境一般」への道のり
昨日の記事を掲載したとき、そういえば昔似たようなことを書いたなぁ、と思いました。そして探してみたら案の定こんなのがありました。

この手の話が多いですね。別にエロネタのつもりは更々ないのですが、まぁ続いてるだけにそう取る人もいるだろうということでちょっと弁解しておきます。

三つの「セイ」


文章を書くときはまず話題を選びます。このとき僕は次の3つのセイを意識します。
  • 政治の「政」
  • 宗教の「聖」
  • ジェンダーの「性」
この3つは、議論で何かとタブー視される傾向があります。理由としては、
  • あらゆる立場が存在する
  • 互いの立場が中々相容れない
  • 時には排斥的な「信仰」を持つ場合も少なくない
といったところがあるでしょうか。かなり乱暴なまとめですが、これらは趣味とかそういうレベルではなく人間に根ざす部分が多々あるというのが最大のポイントです。つまり、一番大事なのに腫れ物っぽいから中々触れられない話題なのです。

ただし、「政」と「聖」については、ネタとして面白くするのが非常に難しいと言えます。知識や下調べが必要な面も多く、そういう手間を惜しまないブロガーには僕はまだ程遠く、さらに僕は政治に疎く(21のくせに)、宗教は日本全体でどうでもよい的扱いなので、とても書く気になれません。で、一番身近にあるものが「性」だというわけです。

「セイ」について本気で書かれた文章は読んでていつも面白いと思います。僕は「性」に関しても、正直自分の意見を持てるレベルには至らないのですが(だから書くことは結論に「繋がり得る」些細な例に限定される)、どれについてもある程度の見解は示せるようになりたいと思います。いずれ、の話ですが。
【2005/10/12 01:50】 文章 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
「言論の自由」の前提
ブログだろうが掲示板の書き込みだろうが、


責任を取れると思ってから書く。

書くからには責任を取る。


基本中の基本。
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【2005/08/01 08:40】 文章 | page top↑
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