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200ページ足らずの本のレビューにどんだけ書いたら気が済むんだよ、と言う感じですが、もうちょい行きます。前編(あらすじ)はこちら。
さて。 クドく口説かにゃ口説くと言えず印象に残るシーンはたくさんありますが、あえて1つ挙げるなら、幼き子供を暗殺しておいて、その母親に娘をよこせと迫る場面でしょうか。 冗談じゃないです。無茶に決まってます。しかし「諦めません、勝つまでは」がモットーのリチャードのこと。お国のため、ならぬ、王冠のために尽くします。「月月火水木金金」で悪事に励む男です。 いわく、自分が子供たちを殺したことは向こう見ずな間違いだった、ああ嘆かわしい、などとしゃあしゃあと言って食い下がり、さらにすさまじい屁理屈を出してきます。 「その腹を痛めたお子達をどうしてもこのリチャードが殺したとお言いなら、それを生き返らせるため、エリザベス殿(娘)にこの身の子を生んでもらい、あなたの血筋をたてるという手もある」 ちょ、ちょ、ちょっと待て( ̄〇 ̄;)!!!子供を殺したから、孫をつくって埋め合わせにしてやろう、というとんでもない「お申し出」です。屁理屈もここまで来ると人間の理解を超えます。 そう簡単に母親が納得するはずがありません。しかし何度拒絶されても、次から次へと口から出まかせ。手元の新潮文庫では、このシーンはなんと12ページにも及びます。小説多しと言えど、僕は12ページ連続で振られ続けた男を初めて見ました。 結局、最後は母親に「あれの気持ちはいずれ私から」と言わせます。母親退場。その瞬間のリチャードの独り言がすごい。 「たわいのない愚か者!気の変わりやすい女だ!」 もう鬼とか悪魔の次元じゃありません。 四大悲劇の影にシェイクスピアといえば「四大悲劇」に「ロミオとジュリエット」を加えた5作が知られるところですが、「四大悲劇」はいずれも後期の作品。しかし、初期に書かれたこの「リチャード三世」の迫力はまったく遜色ありません。 しかし、ちょっとつらいのがこれが歴史劇だということ。世界史を高校受験で勉強していない身にとっては、正直ストーリーは理解を超えました。 王位継承の順は、 ヘンリー六世 →エドワード四世 →エドワード五世 →リチャード三世 →ヘンリー七世 と続きます。もうこの時点で勝手にして下さい状態ですが、 ややこしさはこんなの序の口です。 ヨーク公はリチャードと同一人物で、グロスター公が主人公ですが、これが後のリチャード三世で、前のリチャードとは違います。エリザベスの娘はエリザベスといい、ウェールズ公はエドワードのことで、これはエドワード四世の息子にあたる、つまり後のエドワード五世で、ただしこれとヘンリー六世の息子のエドワードとは別人物です。 …本気でもうカンベンしてください。 こういう状況なので、劇中で「叔父の敵」とか言われても、叔父が誰か以前に、父親が誰かも分かりません。源平合戦あたりが小説になって外国人が読んだら、きっと「ミナモトノ」「タイラノ」で大混乱が起きること請け合いですが、まさにそれです。 とはいえ雰囲気は確実に伝わりますし、レトリックも非常に面白いので知識の有無に関わらず是非手に取ることをおススメします(僕自身も読み終わってから調べただけです)。ちなみに「父親が誰かも分からない」というのを読んでちょっと変なことを想像してしまったアナタには、昼ドラの時間に歴史もちょっと勉強することをおススメします。 ここまで引っ張って最後が下ネタかよ、みたいな声が聞こえてくるようですが、美しい薔薇にはトゲがあるのですよ(全然美しくないけど)。リチャード三世の死によってイギリスの薔薇戦争が終結し、テューダー朝が誕生する、それこそまさにこの物語の結末なのでありました。 …強引すぎか、この結び。 引用元リチャード三世(新潮文庫)、福田恒存(翻訳) |
「絶望だ。 身方は一人もいない。 俺が死んでも、誰も、涙一つこぼしはしない。 いるわけがない、俺自身、自分に愛想をつかしているのに、誰が涙を?」 ― 「リチャード3世」(シェイクスピア)より 物語のクライマックス。悪夢から飛び起きた極悪非道の王、リチャード三世の言葉です。とにかくすごい迫力です。 「極悪非道」なんて生易しい言葉ではきかないかもしれません。物語のしょっぱなから、強欲と悪事の限りを尽くします。 とにかく王冠がほしい主人公。しかし、彼は3兄弟の3番目。しかも一番上の兄には息子がいます。王になるためには、2人の兄とその息子を全員始末しないといけません。
しかし、話はそこで終わりません。
まさに大混乱です。「むちゃくちゃだよ…、ピッコロがかわいくみえらぁ」というクリリンの嘆きが聞こえるかのようです(対ラディッツ戦)。 さすがにここまでくれば末路も見えます。逃れた実力者が反旗を翻し、戦争となるもリチャードには味方がいません。そして、自らが殺した人々が次々と亡霊となってリチャードの夢に現れ、呪いの言葉を浴びせていく。最初に引用した言葉の出る場面です。そして、断末魔の叫び。 「馬をくれ!馬を!代わりにこの国をやるぞ!馬をくれ!」 何人もの亡骸を引き換えに手に入れた王冠を、悲痛な叫びで手放します。その最期はあまりにも哀れ。 エンターテインメントのつもりで読み始めましたが、読み終わってみたら動揺に数日悩まされることになりました。人間タダで悪事ははたらけません。リチャードは常識を外れた悪知恵の持ち主。容貌だってせむしでびっこの醜い男。およそ人間離れしたヤツですが、それでもシェイクスピアの手にかかると、不思議と自分のことのように感じてしまいます。 ・・え?それ、僕だけ? …まさか、ね。 次回に続きます。 |
「少年『犯罪』シンドローム」
(小笠原和彦著・現代書館・1989/09出版) 視野を広げようと思ってこういうものに手を出してみました。なかなか面白い、というか、ネタとして最高でした。20年近く前の出版なので、なおのこと味が出ています。 少年の起こしたいくつかの犯罪に目を向け、その背景云々なのですが…。
一直線にこの方向です。いや、著者の綿密なリサーチには頭が下がりますが、またこれかよ、と僕はどうにもマジメに受け取れないんですよね。 世の中ほど複雑なものを割り切れる例は、よほど特殊一つの例を見てみましょう。目黒区の両親祖母殺害事件に関して、少年の父親・母親が勉強にどう関わっていたのかについての記述です。まずは、小学校の担任の先生の話。 「実におおらかなお母さんでした。…成績のことも、『親がこうだから仕方ないですよね』と笑っていました。 この後、本文はこう来ます。 学校の成績について、親が口やかましかったかどうかについて、報道は分かれた。事件直後祖父は、毎日新聞の記者に「小さいころから勉強しろといわれていた」と語っている。少年も両親から勉強しろと口やかましくいわれた、と供述している。果たしてどちらが正しいのであろう。 どちらが正しいのであろう…ってアンタ( ̄〇 ̄;)。 勉強しろと言わない親はいないし、勉強しろ以外を言わない親もいません。二項対立の問題じゃないのに、少年像を割り切るために強引に結論を出してきます。 まぁ面白いんですけどね。ネタとしては。 「国語」の問題学校の算数と受験の算数も大きく違いますが、何より違うのは学校の国語と受験の国語のように思います。「読んでどう思うか」ではなく、具体的に設問に答え、正解を導かなくてはなりません。 うろ覚えで恐縮ですが、昔読んだ本にこんなのがありました。 無人島に流された少女の話で、その少女の気持ちとして適切なものはどれか、という問題があった。選択肢には「寂しい」「うらめしい」「憎い」「楽しい」などが並び、正解は「寂しい」だが、おそらく少女は同時に他のどの感情も持ち合わせただろう。 もちろん、「最も適切」なものと言われてるから…と言って、正解の正当性を主張することはできます。しかし重要なのは、少女の複雑な気持ちを割り切ることを正解とし、割り切れないものを不正解として、そういうトレーニングを無数に繰り返す、その教育が「受験国語」だ、ということです。 どうです?何だか、怖いものを感じませんか? 結論社会的に重要視せざるを得ないこうした事件を見て、結論を急ぐあまりに0か1かで割り切って「意見」としてまとめてしまう。この本の記述に見られるこうした思考回路こそ、まさに幼少のうちの受験勉強に代表される、詰め込み教育の弊害なのでしょう。 …と、結論付けて、最初の自分のワナに見事にはまる、そんなオチでした。ちゃんちゃん。 |