スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
【--/--/-- --:--】 スポンサー広告 | page top↑
青い鳥を求めて
最初にお断りしておきますが、何日にも分けて書いている長さです。全体は「レビュー3本+日記」の構成で、レビューで扱うのは、
  • 「君死にたまふことなかれ」(与謝野晶子)
  • 「山月記」(中島敦)
  • 「クリスマス・キャロル」(ディケンズ)
です。

君死にたまふことなかれ


軍国主義のさなかに詠われた、与謝野晶子の反戦歌。その冒頭は、歴史の教科書に必ず載っています。
あゝおとうとよ、君を泣く
君死にたまふことなかれ
末に生まれし君なれば
親のなさけはまさりしも
親は刃をにぎらせて
人を殺せとをしへしや
人を殺して死ねよとて
二十四までをそだてしや
(後略)

まぁ簡単に補足すると、「人を殺せとをしへしや」の「や」は反語を表しているので、「人を殺せと教えたのだろうか、いや、そうではない」というニュアンスです。同じく、「二十四までをそだてしや」は、「人を殺すことが人生だとして、親はお前を24歳まで育てたのだろうか、いや違う!」となります。


じゃあ何が人生か、何をして死ねよと親は教えたのか、ということはここでは語られず、以下は全5連に渡る反戦歌が続きます。(全文、訳、解説はこちらが詳しいです。)
あゝおとうとよ、君を泣く
君死にたまふことなかれ
末に生まれし君なれば
親のなさけはまさりしも
親は刃をにぎらせて
人を殺せとをしへしや
人を殺して死ねよとて
二十四までをそだてしや

堺の街のあきびとの
旧家をほこるあるじにて
親の名を継ぐ君なれば
君死にたまふことなかれ
旅順の城はほろぶとも
ほろびずとても何事ぞ
君は知らじな、あきびとの
家のおきてに無かりけり

君死にたまふことなかれ
すめらみことは戦ひに
おほみずから出でまさね
かたみに人の血を流し
獣の道で死ねよとは
死ぬるを人のほまれとは
おほみこころのふかければ
もとよりいかで思されむ

あゝおとうとよ戦ひに
君死にたまふことなかれ
すぎにし秋を父ぎみに
おくれたまへる母ぎみは
なげきの中にいたましく
わが子を召され、家を守り
安しときける大御代も
母のしら髪はまさりぬる

暖簾のかげに伏して泣く
あえかにわかき新妻を
君わするるや、思へるや
十月も添はで 別れたる
少女ごころを思ひみよ
この世ひとりの君ならで
ああまた誰をたのむべき
君死にたまふことなかれ

第2連で、商人の家の誇りを語り、
第3連で、天皇はお前の死を望むものかと強く出て、
第4連で、彼への思慕で苦しむ母の嘆きを代弁し、
第5連で、結婚1年に満たない若妻に想いを訴える。。


これだけいろいろな方向から弟を見ていながら、「弟をこんなに愛してる」という晶子本人の想いそのものが書かれていません。だけど、そんなものはなくてもいい。全体を通じて弟への愛が溢れています。
あゝおとうとよ、君を泣く
君死にたまふことなかれ
この強烈な語り出しで始まって、そして最後でも訴える「君死にたまふことなかれ」。


晶子本人からすれば一番遠いかもしれない存在「新妻」で詩を結んでいるところも、強くて悲しいやさしさを感じさせます。


家、君主、母、そして新しい家庭。


第1連の反語の裏で間接的に投げかけられた、「親は何ををしへた」のか、という問いへの答えらしきものがぱらぱらと散りばめられ、それが晶子の強い声でまとめられています。


いい詩ですよね。僕は好きです。





「山月記」


中島敦の「山月記」を読みました。最近は高校の教科書でも取り上げられているようですが、僕は読んだのは初めて。わずか十数ページなのに、すごく含蓄のある小説です。


念のためあらすじを書いておくと、李徴は仕事をやめて、昔からの夢であった詩作に専念、しかし一向に名は上がらず生活は苦しくなるばかり。すべてを捨てて山中で発狂し、気づけば体は虎になっている。ある日、李徴の友人がそこを通りがかると、茂みから李徴の声が聞こえる。曰く、虎になった自分は一日に数時間しか人間の心を持てないとのこと。こうなった理由は、自分の高慢さが人にへつらうのを妨げながら、一方でその臆病さによって努力を避けてきたこと、そして妻子を残してきたことではないかと告白する。そして、李徴は最後の望みとして、人生を賭けた、自らが書き残した詩を発表してくれること、そして妻子の面倒を見てくれることを頼み、そして別れを告げる…。


こんな感じ。まぁ読んだことある人は多いですよね。


「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」という言葉が出てきます。自らの才能を人に誇ろうと優越感を抱きながらも、才能のなさが暴露されるのを恐れて努力できないという劣等感に悩まされる。その劣等感を隠すために人との交わりを避け、優越的な態度をとり、また人間関係に苦しみを覚える…。


なんとも現実的な話。身につまされる思いがします。そして、こうしているうちに、彼は虎になってしまう。



ここからの描写がすごい。日本語がうまいので、そのまま引用します。
自分は直ぐに死を想うた。しかし、その時、眼の前を一匹の兎が駈け過ぎるのを見た途端に、自分の中の人間は忽ち姿を消した。再び自分の中の人間が目を覚ました時、自分の口は兎の血に塗(まみ)れ、あたりには兎の毛が散らばっていた。これが虎としての最初の経験であった。それ以来今までにどんな所行をし続けて来たか、それは到底語るに忍びない。ただ、一日の中に必ず数時間は、人間の心が還って来る。そういう時には、曾ての日と同じく、人語も操れれば、複雑な思考にも堪え得るし、経書の章句を誦んずることも出来る。その人間の心で、虎としての己の残虐な行のあとを見、己の運命をふりかえる時が、最も情なく、恐しく、憤ろしい。しかし、その、人間にかえる数時間も、日を経るに従って次第に短くなって行く。今までは、どうして虎などになったかと怪しんでいたのに、この間ひょいと気が付いて見たら、己はどうして以前、人間だったのかと考えていた。

ただ、とにかく共感しました。どんどん人間と話さなくなっていく自分。いつの間にか自らの「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」によって自分が見えなくなり、歪んでいて、そしてふと我に返ったとき、自らの牙に血を見る自分。どんどん分からなくなる。人にどれほどの傷を負わせたか、もう一日ほんの数分になった「人間の頭」で、考えても考えても分からない。


「就職活動でたくさんのものを失った」という文章をかつて見ました。納得。歪んだ常識が、刺激に反応して、さらに歪められる。自分が人間の心を失ったということが、「後から」分かる。そしてぞっとする。経験ある人もいるんじゃないでしょうか。


虎になる必然性は、この作品にはない。すべては李徴の推測です。彼に必要だったのは、詩作への没頭か、仕事への邁進か、妻子への愛か、あるいは??答えが出るなら、歪んだ人間などこの世にいない。


ちなみに、ちょっと検索をかけると、国語の授業ノートみたいなのが沢山出てきて面白いです(笑)。興味ある人はどうぞ。





「クリスマス・キャロル」


くどいですが、さらにもう1つレビュー。今日読み終わりました。「大いなる遺産」などで有名なイギリスの作家・ディケンズの童話「クリスマス・キャロル」です。


主人公は、誰にでも嫌われる守銭奴スクルージ。クリスマスだといってもアタマの中は仕事と金だけ。書記をどなりつけ、寄付を断る。そんな彼のもとに3人の幽霊が訪れ、過去、現在、未来を見せていく。1人目の幽霊が見せたのは、過去。スクルージがかつて見た、美しいクリスマスの光景、そして恋の語らい。少しずつ、運命に変調をきたしていった頃。2人目の幽霊が見せたのは、現在。幸せなクリスマスの家庭、嫌われ者のスクルージ。だけど、血も涙もなくなったような彼にも、その幸福を願う人がいる。3人目の幽霊が見せたのは、未来。誰もが、とある死んだ男の悪口を言う。誰からも尊敬されず、墓もボロボロ。そして、その世界に、スクルージがいない。まさか・・・。そして現実に戻って、彼は子供にやさしくなり、書記に心を配り、家族とクリスマスを祝い、善なる人間になって幸せになった、というハッピーエンドです。




読んでて、居心地の悪さを僕は感じ続けていました。「めでたい日」。それはそれでいいのだけれど、全員がそれを享受できているわけではない。
それでもその全員が、それぞれにクリスマスの歌を口ずさんだり、クリスマスのことを思ったり、いっしょにいる仲間に昔のクリスマスの思い出のことを、小声でささやいたりしていました。そうした思い出話には、故郷への思いもひそんでいました。船の上には、起きている者もいれば眠っている者もおり、善人もいれば悪人もおりましたが、そのだれもが、一年のうちのこの日だけは、ふだんよりも思いやりのある言葉をかけあい、いくらかでもお祭り気分を味わい、遠くにいる親しい人たちのことを思い出したり、むこうでも自分のことをなつかしく思ってくれているだろうなと考えたりしているのでした。

典型的な美しきクリスマスの描写とやらでしょうけど、中には恵まれない人だって絶対にいる。中には、普段から善を心がけ(スクルージとは違う!)、それでも、家々でのパーティーを、そこから流れる七面鳥の香りを、笑い声を、子供たちの浮き立つ足取りを、一人ぼっちで羨ましく感じる人がいる。彼らに何が出来るのか。非があるなら、直すのはたやすい。


スクルージには、甥の家族がいました。だから改心したとき、彼らの元に飛び込めた。だけど、そんな家族がいない人だっている。改心したって彼らの元に飛び込めない人もいる。飛び込んで、歓迎されない人もいる。その人たちは、「悪人」だろうか。


非がない人の不幸は、果たして救われるのか。
不幸な人間には、みな、スクルージのような非があるのだろうか。



報われない人々。
因果応報では語れない人々。


「親にをしへられ」ていなかろう戦争に向かったのは、軍部の命令だったはず。詩作に励み、いかにも人間らしい苦悩を抱えた李徴が虎になったのは、彼のせいなのでしょうか。


童話だから仕方がないのかもしれないけれど、「クリスマス・キャロル」には西洋のマイノリティーを抑圧する歴史の一端が見える気がしました。そして、その片棒を担いだような文章が、12歳から靴墨工場で働いた庶民派の作家・ディケンズの筆から見えたところに、僕は嫌悪を感じました。

(註:ちなみにこの作品は19世紀半ばですが、「不条理」概念が主にカミュやサルトルら20世紀前半の人によって描かれだしたことから、作品に罪を着せる気はありません。そういう時代の話なんだな、と。)





そして、最後に自分のこと。


============


自分の欠点なんて、枚挙に暇がない。怠惰で、愚かで、傲慢で、空気の読めない、非常識な、醜い、ああ。こうした列挙の中でも、自分の本当にイタい部分を避けて書いている、自分の偽り。一日が終わって、鏡の前に来たときに、日記帳を開いたときに、自分の牙についた血に気づいて必死に拭き取る毎日です。時に、誰の血かも分からない。



でも、虎になった李徴に、詩や妻子を任せられる最後の友人がいたように、僕にもまだ大切な人たちがいて、彼らがまだ僕の人間の心をつなぎとめてくれてる感じがします。自分がスクルージのような冷血漢なら、日ごと短くなる、そのわずかな人間の心で、改心していく他はない。だから頑張ろう。だけどもしも、「クリスマス・キャロル」に描かれないような、非のない苦しみを持ったとしたら?


それは考えるだけで恐ろしい。そんなものはないと信じて、非が見える限り頑張るだけ。でも、それでいいのだろうか。





研究テーマに宗教建築を選んだことを、半ば後悔しています。重すぎる。でも、やるしかない。やるなら、今しかない。同期はいなくなりました。
人を殺して死ねよとて
二十四までをそだてしや
学生最後の誕生日は、友人に1人も会わない、静かな一日でした。最近を振り返ってみれば、そんなことはその日に限ったものでもない。虎は、「白く光を失った月を仰いで、二声三声咆哮」するのみ。



24歳になりました。ダメ人間なりに生きます。
【2007/10/21 03:51】 読書 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
ひとやすみ
いつまでか分かりませんが、一身上の都合でブログ更新を中断します。


mixiの方で続きを、というか仕切り直して書きます。mixiに入ってない方でこのブログを見てくださっている方々には申し訳ないんですが。


==========


最近特に検索でやって来られる方が多いのに驚いています。7月27日現在、Google検索で、「東大 院試」だけでなぜか5位「東大 院試 工学部」「東大 院試 建築」ではそれぞれ1位に表示されます。該当ページはこちら



・・・ただの噂話寄せ集めなんですけど( ̄〇 ̄;)。




その他レビューへのアクセスもそこそこありますので、このページ自体は消さないことにしました。ブックマークされてる方も利用してもらえればと思います。


それでは、いつかまた、よろしくお願いします。
【2007/07/28 19:59】 雑記 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
新婚旅行はベトナムへ!?(ベトナム旅行記11・終)
「いや、それはナシっしょ(笑)」
こう笑われることがほとんどでした。旅行中に日本人に会うと必ずしたくなる質問。日本で質問してこうなら理解できますが、ベトナム観光客に聞いてもほとんどが否定派なのに、僕は正直驚きました。てかアンタ来てるじゃんかと。でも僕は、ある程度お金があり、そしてヨーロッパ文化至上主義だというのでなければ、ヨーロッパよりよほど楽しめるのではないかとさえ思います


まず、食べ物がおいしい!


食中毒が不安なんてのは、ごく一部の貧しい食事。きちんとしたところできちんとしたものを食べればよいだけです。日本のラーメンでさえお腹を壊す僕が、1ヶ月の旅行でノーダメージ帰国です(お腹はね)。ベトナム料理はとにかくヘルシー。野菜はたっぷりだし、海鮮も充実、麺もご飯もアッサリしていて、パンやスープも種類が豊富、そして南国フルーツは絶品です。ベトナム料理は辛いという誤解が多いのですが、辛いのはタイやインドでベトナム料理ではありません。1200円も出せばヘルシー&デリシャスな、宮廷料理フルコースが食べられるのです。


甘味もすごい。中でも、ベトナム式カキ氷「チェー」は超の付くオススメ品です。日本のカキ氷は氷にシロップをかけただけのインチキものですが、ベトナムの「チェー」は、甘い黒豆、緑豆、白玉、フルーツと具が盛りだくさん、そしてこの上に氷がかかってるわけです。スプーンで氷をシャカシャカ崩して、キンキンに冷えた具を食べる。最高です。ダナンでは、毎日通って食べました。だって1杯30円(笑)。日本のカキ氷なんてメじゃないです。

(ちなみに、日本にもお店がオープンしたようです!)


==============


そして次。先にも関連しますが、とにかく安い!


いや、たとえケチる必要がなくても、たとえ新婚旅行でも、予算は絶対に無限ではないわけです。ウィーンなどに行こうものなら、1泊15000円とかでさえ「安宿」扱い。それに引き換えベトナムは、1500円でエアコン完備、3000円で蚊帳付きベッド、15000円も出せばフィットネス、テニスコート、プール、マッサージ設備付きなんてのも現実です


考えてもみてください。帰国後半年間の倹約生活にアタマを悩ませ、レストランで食事メニューを開くたびに「うわー、日本より高いなぁ」と思い続けるジャブ連発のダメージと、たらふく飲み食いすればするほどお得感を味わうのとでは、幸せ加減もケタ違い。旅行の楽しさとして、これは無視できません。


さらに、目には見えないサービスも違う。観光に行くのに、添乗員へばり付きか勝手に見て来いの2択を迫られるヨーロッパに対し、ベトナムではどこに行きたいとホテルのフロントに言うだけであっという間にツアー手配が進む。そこら中に代理店があります。それに、安宿にもある日本語インターネットや、ランドリーサービスも侮れません。1日で洗濯物を洗ってくれるので、着るものはいつもピカピカです。


(ちなみに、旅行中フランス人カップル@新婚旅行と遭遇、ベトナム各地で4回も「偶然」会うという珍事がありました。ダンナに「ベトナムにお前の顔を見に来たみたいだ、と、イヤミ成分50%の冗談を言われましたが、それもそのはず。フエにて彼らが泊まった宿は、僕と同じく1500円。新婚旅行がいいのかそんなんでと激しく思いました。)


==============


そして、海!!!

ビーチリゾートというとハワイだグアムだ、ちょっと変化球でタイのプーケットなどを想像するかと思いますが、ベトナムも負けてはいません。南部のニャチャンに始まり、ランコー、ファンティエット、フーコック島と盛りだくさん。僕が行ったランコーは、努力の甲斐あって年間観光客数が100万人突破とか言ってましたが、ハワイなんてホノルルだけで年間700万人、観念的にイモ洗い状態です


見渡す限り真っ白な砂浜のビーチで、観光客はポツポツとカフェにいる程度。真夏の太陽の下、浜で着替えてドボンと飛び込んでみれば、首まで水に浸かっても足先の砂粒まで見える水の透明度でした。天国でした。いや、帰ってこれたけど。


==============


そんなこんななベトナムなのです。イメージが悪いのは認める。ぼったくりが多いのも認める。病気が多いのも認める。事実僕だって、だまされもしましたし、挙句に交通事故にも逢いましたさ。


だから新婚旅行と言うとさすがに迷いはあるかもしれませんが、観光地としては、日本で思われてるほど悪い国じゃない。旅行とは、ガイドの写真を3次元に起こすだけじゃないのです。まして、安全を買いに旅行に行く人などいない。必要な安全安心はきちんと考え、知識欲を満たし、それでいて豪奢にのんびりと、それを有限の時間と有限のお金で最大限楽しめる国はどこか、と聞かれたとしたら。


僕は本気でこの国を、大いに推薦したいと思います。


(でもやっぱ自分の新婚旅行は無理かも…てオイ)



===============


最後に。


騙され撥ねられを実況中継したついでに、いっそお財布状況も(簡単に)公開してしまいましょう。
6月の4週間で3カ国周遊(ベトナム、カンボジア、タイ)
・航空費・・・20万
・現地の観光宿泊費・・・18万
・事前準備(VISA、予防接種他)など・・・6万

航空費は、飛行機に7回乗る(!)という贅沢をしたせいで無駄に膨れ上がってしまいましたが、賢く往復だけなら7万くらいでしょう。また観光費は、僕は伝統ダンスやショーに通って膨らましているため、まだまだ切り詰め可能なので、トータル30万で1ヶ月の周遊旅行も全然夢じゃありません。でも、僕は僕でこれで大満足。そのくらい有意義でした。


===============


情報としてでも、読み物としてでも。何かしらが伝わればと願ったところで、東南アジア旅行記はこれにてオシマイ。長い長いこの旅行記を読んでくださった方、本当にありがとうございました。



それでは、Tam biet!!
(タン・ビェット/さようなら)
【2007/07/27 19:51】 旅行記 | トラックバック(0) | コメント(7) | page top↑
牛歩読解
旅行中、旅行ガイド以外に何一つ読まなかった反動か、帰ってから本の衝動買いがひどいです。すでに15冊以上買っていますが(1日1冊近いペース)、あいにく僕はひどい遅読。帰国後の消化はわずかに3冊、1週間に1冊でも自分としてはそこそこなので、机の積ン読がとにかくジャマです。


いかにもな感じですが、周りにやたら速読派が多いのはここが東大なのと無関係ではない気がします。貸した本が2日で戻ってきたり、レビューがバンバン更新されたり、研究の参考文献リストを見てると、何か悔しい。速読の甘言を鵜呑みにすれば、「理解内容はほとんど変わらない」らしいので、読めば読むほど時間を相対的に損している気分。それでも速読を試せば3日と持たない自分の向学心には、まさに呆れてモノが言えない…って、この表現を使う人に限ってモノを言いまくってる傾向があるからこの表現は嫌いだけど。


=============


速読と遅読が同じ理解度なら、これで決定的に差がつくのが受験国語でしょう。なにぶん、あれは本文を読むのも時間に含まれているどころか、読むことが時間配分の大黒柱。学校教育は何かと本文の理解に時間をかけるけど、受験を目指すならスピードは絶対必要です。より早く読み、より早く解く、ということを国語の時間にどうしてやらないんだろう?


学校教育として踏み込みにくいのは分からないでもないけど、塾や私学では先生の裁量でドンドン取り入れられていいような気がするし、何も受験テクニックだけの話をしているのではなく、冷静に検討すれば子供の将来のために有意義と判断する人はいるはず。先生がノウハウを持ち合わせていないのかな?


数学にしろ、物理にしろ、先生が例題を与えて生徒が解く時間は必ずある。そして先生が打ち切る。これが時間の「目安」で、理系科目ではそういうトレーニングは日常的に行われている。だけど、国語はなぜか、何かと「宿題」になる。算数の授業に計算トレーニングを課す要領で、読解(例えば速読)のトレーニングは何かしら取り込めないのかなぁ?算数の計算に対するのは国語では漢字だ、という古典的発想は、あまりに安直な気がする。



国語の先生は魅力的な先生が多いと思うけど(少女が恋する先生は間違っても数学教師ではない。イメージだけど)、授業は先生任せの哲学的思索の場になり、それはそれでいいけどトレーニング要素を「全く考えないのが当たり前」になっているんじゃマズかろう。少なくとも自身が受けた国語の授業にはそう思う。まぁ一つ前の時代の話だけど。


代数と幾何で苦手があれば点数にハッキリ出るし、小問で方程式と関数の小計を見ればどこでつまづいてるのかも分かって対策も立てやすい。でも、小説と説明文で点数に違いが出ても何のことだかは正直よく分からないし、国語は常に読む力と書く力が混在して測られているからなおのこと。テストをやって、その反省や弱点克服の方法を、今の先生は示せているのか。



速読など新しいツールが脚光を浴び、小説も論説もどんどん新しくなり、社会の激変に晒される科目・国語。教えられたことをそのまま教える、コピーのコピー方式ではどうしても品質は劣化しそうです。現役の先生はどう工夫しているのかな?
(ここまで読んだ現役さんいますよね?(笑))








あー、うらやましいなー。てか、僕の場合は書くヒマあったら読めよってとこですね。すみません。


で、調べてたらこんなの見つけました。
参考:学習指導レポート、習熟度別指導の学力について(国語)考える②
面白いですよー。
【2007/07/17 04:43】 読書 | トラックバック(0) | コメント(5) | page top↑
情報孤島の運命
前の日記で、ベトナムの下半身事情で「いい思いをした人もいる」と敢えて表現を穏やかにしましたが、その筆頭が現都知事なのは皆さんご存知のことだと思います。著作「国家なる幻影」では、その最初の章で「アオザイ(ベトナムの民族衣装)に包まれた嫋嫋(じょうじょう)たる柳腰の娘を腕にする」だの、買春の挙句、買った娘が「私の男もののブリーフを記念に」しただのの話が自伝に堂々と書かれ、出版されて全国の書店やアマゾンや図書館に並んでいるわけです。ここんとこ「産む機械」「しょうがない」などで大騒ぎになって、国民も意外とデリケートかと思ったら、そういやその某都知事は選挙で圧勝してたなぁと思い出している今日この頃。


ここで何が違うかといったらマスコミの対応で、「産む機械」「しょうがない」両発言は、繰り返し繰り返し発言が切り取られて視聴率稼ぎに利用され、一方の都知事はというと、昔の著作は見向きもされず、四男問題は「説明がきちんと果たせなかったことをお詫びします」の映像だけで、じゃあ四男問題って何かってとこは全然触れられない、って両者の違いなわけです。


Wikipediaには面白いくらいに書かれていますが、都知事の女性蔑視や外国人蔑視ははるか昔から有名です。とはいえ、マスコミに取り上げられなかったのは、そりゃ著作が古い(といっても99年だけど)とか、今更感で「ニュース」にならなかったこと、所詮47都道府県の都の話だということ、あと何より公職選挙法。そういうちゃんとした諸々の理由はあるので、マスコミが問題だとは思いません。ただ、結果としてマスコミのおかげで問題発言ばかりが取り沙汰されてキューマやヤナギサワは「国民の敵」になり、マスコミの目を潜り抜けたセクハラシタロウ、じゃなかった、イシハラシンタロウは都知事選圧勝となった、そのくらいマスコミの力は大きいのだなぁと感じる次第です。


てか、ヤナギサワに至っては、発言は問題ではあるけど、議論の最中の発言(著作とはワケが違う)で、しかも当時会場の誰からも文句を言われず、ある意味「視聴率稼ぎの血祭りに挙げられた」と言えなくもない。


==================


僕ら国民はそのくらいマスコミに「支配」されてるんだけども、でもマスコミなしには政治は知り得ないのもまた事実。戦争で何一つ食べ物がなくなって飢え死に寸前になったら、大金をはたいてでもキャラメルを買う気持ちも分かると思いますが、じゃあなぜキャラメルに大金がかかるかと言うと、それしか生き残る道がないから売り手が値段を吊り上げる。売り手の言う値段の言いなりになるしかないわけです。


それと同じで、マスコミなしには情報を知り得ない国民は、とにかくマスコミの言うことを信じるしかない。言いなりになるしかない。そういう意味で、問題発言に釘付けになっている人の何割かはすでに言いなりになってるんだろうし、僕の頭の何割かも既に言いなりになっているはず。


マスコミには視聴率と経営という巨大な圧力がかかっているけど、場合によっては、これからそこに別の圧力がかかることだって十分考えられる(し、今もうかかっていておかしくない)。参院選が近いですが、その焦点は「官僚の不祥事」「年金問題」だそうな。安倍政権の本質はそこか?



マスコミも信用できない。「国民の声」も疑問。だけど、ゴチャゴチャ言い訳してアンテナが狭い自分の知識も惨憺たるもの。そもそもアンテナの拡大が、(自分にとって)いいことなのかさえ分からない。





参院選まであと2週間。自分も大混乱。自分の意見が見えなくて、このままではいかんと思いつつ、メディアを見るのがつらいのです。
【2007/07/15 22:02】 雑記 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
前ページ | ホーム | 次ページ
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。